1961年の阪急ブレーブスでは、1961年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、戸倉勝城監督の3年目(途中就任の1959年含む)のシーズンである。
前年優勝争いに絡めなかったものの、65勝65敗6分で5割だったチームは3年ぶりのAクラス入りが期待されるも、南海との開幕2連戦で米田哲也・梶本隆夫が打線の援護なく敗戦。これが尾を引いて開幕から10連敗し、また接戦に弱く4月30日の対近鉄ダブルヘッダー第2試合から9連敗で、借金地獄に突入。6月初旬には4連勝するも、一進一退の展開が続いた。8月は7連勝もあって14勝12敗と勝ち越し、同月に8勝22敗で大きく負け越した近鉄とのゲーム差を広げ、最後はその近鉄に18ゲーム差をつけたが優勝の南海や2位の東映の背中は遠く、最終的に借金31で5位に沈んだ。投手陣は梶本・米田が17勝、16勝でチーム53勝のうち半分を稼ぎ、秋本祐作・安藤治久が6勝、佐藤公博が4勝をあげ防御率を3点台後半にとどめるも打線の援護なく負け越し、中継ぎで活躍の足立光宏もわずか1勝にとどまった。打撃陣は中田昌宏の本塁打王という明るい話題があったが、チーム打率は.225のリーグ最下位に終わり本塁打も65本でリーグ最下位だった。この年は2位の東映・前年優勝の大毎に12勝16敗とそれぞれ健闘するも、南海には同一カード10連敗を喫するなど相性が悪く5勝22敗1分、西鉄にも同一カード10連敗を喫するなど6勝21敗1分と大きく負け越した。
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1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。)1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併)2005年から「オリックス・バファローズ」
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