1950年の阪急ブレーブスでは、1950年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは2リーグ制1年目のシーズンであり、浜崎真二選手兼任監督の4年目(途中就任の1947年含む)のシーズンである。
1949年に球団8年ぶりの2位になったことを受け、浜崎監督がこの年も続投。しかし阪神や大映同様既存球団に選手を持って行かれ、浜崎監督は「大映の赤嶺昌志球団代表を絞首刑にしたい」と過激発言。主力選手が移籍した影響でチームは開幕から最下位と躓くと、同じパ・リーグ仲間の毎日やAクラス常連となった南海の後塵を拝し、7月まで最下位独走。8月以降は近鉄や西鉄を抜いて4位に浮上するも、4月の借金11と9月初旬の8連敗が響き最終的に負け越した。それでも2リーグ制1年目は54勝64敗2分で5年連続のAクラスを確保し、来シーズン以降の優勝に期待がかかったが南海の壁は厚く、初優勝は17年後の1967年まで持ち越された。
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1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。)1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併)2005年から「オリックス・バファローズ」
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