■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート
鍵谷 康司(かぎたに こうじ、1950年7月2日 - )は、山口県熊毛郡平生町[1]出身の元プロ野球選手(内野手)。
柳井高校では、3年次の1968年に春季中国大会へ進むが、1回戦で岡山東商の奥江英幸らに完封を喫する。卒業後は1969年に大昭和製紙へ入社し、都市対抗の常連として活躍。1975年の大会では山根政明[2]・池田信夫の両エースを擁し、2番打者として準々決勝に進出するが電電関東に惜敗[3]。
同年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団[1]。1年目の1976年から二塁手として一軍に定着し、5月には2番打者に抜擢される。同年は26試合に先発出場するが、打撃面で実績を残せず、その後は一時低迷。1979年には復活を果たし、菅野光夫・吉岡悟と二塁手の定位置を争う。その後も内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1981年には巨人との日本シリーズ第3戦で、定岡正二から決勝点となる適時二塁打を放っている。同シリーズでは8打数3安打2打点を記録し、1982年限りで現役を引退[1]。
現在は沼津リトルシニア監督として少年たちに指導し、チームを関東大会出場に導き、関東連盟夏季大会において結果を残している。