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この項目では、児童雑誌について説明しています。その他の用法については「赤い鳥 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
『赤い鳥』(あかいとり)は、鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌。1918年7月1日創刊、1936年8月廃刊。
概要
日本の近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた。1923年の10月号を関東大震災により全焼、12月号を雑誌組合の協定により休刊、1929年2月から1931年1月までの間一時休刊するが鈴木三重吉の死(1936年)まで196冊刊行され続けた。
鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。
その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。
この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。また、『金の船』(1919年、代表者:斎藤佐次郎)、『童話』(1920年、代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊された。
北原白秋は『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。
1918年11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』に、成田為三の作曲した、楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載された。元々童謡は文学的運動としてはじまり、当初は鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったが、この5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになった。それまでの唱歌と違い、芸術的な香気が高い詩、また音楽的にも従来の唱歌と違い、単純な有節形式でない唱歌と異なる音楽に人々は衝撃を受け大評判となった。以後、毎号、歌としての童謡を掲載。この後、多くの童謡雑誌が出版されたことで、大人の作った子供のための芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となっていった。また『赤い鳥』が刺激となって次々と子供向けの雑誌が出版された。
大正9年(1920年)当時の最大発行部数は3万部[1]。
1984年に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めた。
豊島区立目白庭園内に、「赤い鳥」にちなんで命名された施設「赤鳥庵」がある[2]。
主な掲載作品
評価
一流の文学者による作品は、児童文学全体のレベルを高めるとともに、新美南吉をはじめとする次代の児童文学作家を発掘・育成した。一方「童心主義」と呼ばれる方針は、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた[3]。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。
漫画家のやなせたかしは幼少時代、家に蓄音機があり、クラシックのレコードのほか、「青い目の人形」や「かなりや」など「赤い鳥運動」の頃の童謡が揃っていて、小さな時からそうした音楽に親しんだと述べている。(出典:讀賣新聞、2007年6月12日)
テレビアニメ
1979年2月5日 - 7月30日にテレビ朝日系、シンエイ動画制作で、毎週月曜19:00 - 19:30(JST)に、木下忠司の企画、音楽により、テレビ朝日開局20周年記念番組として『赤い鳥』に掲載された童話をアニメ化した『日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ』(『まんが赤い鳥のこころ』)が放映された。第1回「天までとどけ」は1979年10月にミラノで開催された国際映画祭の短編アニメ部門の第1位に選ばれ、同年11月に国連から国際児童年のテーマにかなう作品として主人公「YAICHI」のタイトルで表彰されると同時にニューヨークのIYC映画祭でも上映された。
スタッフ
主題歌
- 作詞 - 松山善三 / 作曲 - 木下忠司 / 編曲 - 宇都宮安重 / 歌 - 東京コンサーツ
- 作詞 - 松山善三 / 作曲 - 木下忠司 / 編曲 - 宇都宮安重 / 歌 - 東京コンサーツ
- 挿入歌「天までとどけ」(第一回放送 天までとどけ にて使用)
- 作詞 - 吉田絃二郎、木下忠司 / 作曲 - 木下忠司 / 編曲 - 宇都宮安重 / 歌 - 東京コンサーツ
各話リスト
放送局
系列は本放送当時のもの、放送時間は個別に出典が提示されているものを除き1979年7月中旬 - 8月上旬時点のものを使用する[4]。
脚注
- ^ 秋山正美『少女たちの昭和史』新潮社、1992年、142頁。ISBN 4-10-389801-1。
- ^ 施設のご案内 赤鳥庵豊島区立目白庭園
- ^ 『赤い鳥』など大正時代の児童文学と「童心主義」の関わりについて述べた論文に古田足日の「童心主義の諸問題」(『児童文学の思想』(牧書店、1969年)に収録)がある[1]。これによると、子どもを「純真無垢」とする『赤い鳥』などに見られた児童観は戦前においてもプロレタリア文学の側から批判を受けていた。古田は「子どもを理想の人間像と見る」芥川龍之介や小川未明の児童観は「後世から批判を受けた」と記している。ただし、古田は「童心主義」という言葉には児童観と創作方法の両方の意味があったとし、古田自身は創作方法の側に当時の児童文学の問題があったとしている。
- ^ 「全国放映リスト」『アニメージュ』1979年8月号、徳間書店、70 - 71頁。
- ^ 『福島民報』1979年2月5日 - 7月30日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『河北新報』1979年3月6日 - 9月11日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1979年2月10日 - 8月4日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『北國新聞』1979年4月2日付朝刊、1979年9月24日付朝刊10面テレビ欄。
- ^ 『北國新聞』1979年3月6日付朝刊、1979年9月4日付朝刊テレビ欄。
- ^ 『北國新聞』1979年4月8日付朝刊、1979年8月5日付朝刊12面テレビ欄。
- ^ 『日刊スポーツ』1979年4月3日 - 4月24日付テレビ欄。
参考文献
- 『赤い鳥 複刻版』全18巻196冊 複刻版解説・執筆者索引共 日本近代文学館、1979年
- 『名作アニメーションシリーズ 赤い鳥のこころ』旺文社・刊(ビデオ企画制作:シーズ、旺文社、K&S)1994年
- 『CD-ROM版 赤い鳥』大空社、2008年、ISBN 978-4-283-00546-4
- 千葉優子『ドレミを選んだ日本人』音楽之友社、2007年3月
関連項目
- 赤い鳥3賞
- びわの実会 - 赤い鳥を目標に、坪田譲治が1951年7月に始めた団体。坪田の人脈から早大童話会OBが多数参加したのが特徴。
外部リンク
- 鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界 (日本語) - 広島市立中央図書館サイト内
- 赤い鳥【全号まとめ】(国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)。「目次」より各号に遷移。「全号」とは同コレクション中の全号の意味で、欠けている号もある。
テレビ朝日系 月曜19時台前半枠 【当番組までアニメ枠】 |
前番組 |
番組名 |
次番組 |
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まんが赤い鳥のこころ
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リスナー向け (ポピュラー音楽) | |
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リスナー向け (クラシック・伝統音楽) | |
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プレイヤー向け | |
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休刊・廃刊 | |
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| ドラえもんシリーズ (大長編・第1期) | |
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ドラえもんシリーズ (併映作品) | |
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