雨森 雅司(あめのもり まさし、本名:雨森 雅夫(あめのもり まさお)、1930年〈昭和5年〉7月24日[9] - 1984年〈昭和59年〉4月9日[6])は、日本の俳優、声優。青二プロダクションに所属していた[6]。
千葉県東葛飾郡八幡町(現:市川市)本八幡出身[4]。
本人いわく、役者になったきっかけは「なんとなく。」[10]。日本大学芸術学部映画学科を卒業し[3][11]、劇団戯曲座に入団[6]。押川昌一原作の『雨宮ちよの処分』の高瀬先生役で初舞台[3]。
その後、劇団七曜会[6]、土の会[12]、河の会[13]を経て、1970年に劇団芸協の創立メンバーとなり[11]、江崎プロダクション[14]、オフィス央[15] を経て、青二プロダクションに所属。
1984年4月9日午後11時50分、肝硬変のため神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学病院で死去。53歳没(享年55)[5]。
声種はバリトン[15]。テレビ草創期から声優として活動し、主に中高年男性の役を多く演じた。
アニメでは『天才バカボン』でのバカボンのパパ役が代表作だが、『愛してナイト』『ルパン三世』など、その他の作品では多数の脇役や悪役を担当している。洋画作品の吹き替えではワード・ボンドを持ち役とし、アニメ作品同様に脇役や悪役・老人役などを担当している。また、舞台俳優としても多くの作品に出演している。
趣味はレコード収集[10]。自家用操縦士免許を取得しており、中古の軽飛行機を所有し自ら操縦していた[10][16]。
「もし役者にならなかったら?」との問いに「死んでいたでしょう」と答えるほど、役者稼業には力を注いでいた[10]。
年間にボトルを約300本空けるなど、酒豪として知られ、このことが肝硬変の発症と自身の寿命を縮める原因になったという。肺の病気で入院した際、青野武が見舞いに行くと、カルピスの包装紙に隠したサントリーホワイトを取り出して「お前が来て酒の一杯も出さないんじゃ、俺のコケンに関わる」と、湯呑茶碗に氷を入れさせて一緒に飲み始めたというエピソードがある[4]。
最晩年に『イーグルサム』への出演時には体調悪化が深刻な状態で、肝硬変による腹水のため腹部が膨れ上がり、ズボンのチャックが上がらず椅子にも座れない状態だったという[17]。
妻の島との間に子供が1人いた[18]。
代表作であるバカボンのパパだが、その嵌まりぶりは共演者も認めており、『元祖』で共演した、本官役の肝付兼太は「もうまったくあの親父をやるためにいたような人」と評している[19]。バカボンのママ役で後任のパパ役とも共演した増山江威子は、雨森のパパについて後に「もうね、普段の雨さんもバカボンのパパみたいなの」と語り、後任のパパ役は役を作らないとパパを演じられない中、雨森は「持っているものそのもの」で演じていたと発言している[20]。
パパが語尾によくつける「〜なのだ」の台詞については三時間掛けて編み出し、原作者の赤塚不二夫に「それだッ」と言わしめたという[21]。
すでに鬼籍に入っていた1998年のソフト99フクピカのTVCMおよび2015年の第66回NHK紅白歌合戦の企画コーナー「アニメ紅白」の締めにバカボンのパパが登場するが、声はいずれも雨森が演じるパパの音声を作品から抽出したものから使用されている。
雨森の病気による降板後、代役を務めた人物は以下の通り。
雨森の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
※太字は主役・メインキャラクター。