栃木県立大田原高等学校(とちぎけんりつ おおたわらこうとうがっこう)は、栃木県大田原市紫塚三丁目にある県立高等学校。通称は「大高」(だいこう)[注釈 1]。
教育方針
校訓
大田原高校では校訓として「質素堅実」を掲げている。これは創立当初の旧制中学校時代に初代校長である尾河鉄太郎が提唱したもので、大田原高校ではこれを「表面を飾らず内面を磨く」意味であると定義している[3]。この校訓は校歌の歌詞にも組み込まれており[1]、また後述の「85km強歩」も、この校訓や後述の指標に相応しい精神を確立するための学校行事として位置づけられている[4]。
指標
1986年(昭和61年)以降[5]、校訓を具体化するものとして、これ付随する以下の指標が掲げられている[3]。
学習の指針
以下の指針は1988年(昭和63年)に当時の風紀の乱れを是正するものとして作成され、教室の正面に掲載されたものであり[6]。以降も大田原高校の教育目標として掲げられている[7]
- 夢なきところに努力はなし
- 目標なきところに到達なし
- 計画なきところに実行なし
- 錬成なきところに熟成なし
- 反省なきところに進歩なし
- 苦悩なきところに歓喜なし
制服
男子校の伝統でもある金ボタン5個の黒学ラン(標準型学生服)。
沿革
- 旧制中学校時代
- 新制高等学校
通学者
2015年(平成27年)度入学者より全県一学区制となり、居住地に関係なく入学できるようになったが[8]、大田原市内を中心に、那須地域からの通学者が多く、矢板市や塩谷町、さくら市といった塩谷郡地域からの通学者もいる。
進路状況
大田原高等学校年度別大学合格者数平成28~令和2年度版 を参照。
交通アクセス
著名な卒業生
政治・行政
実業家
学者
文化・芸能
スポーツ
85km強歩
概要
85kmのコースを26時間かけて歩く強歩大会。毎年5月下旬に行われる恒例行事であり、2010年(平成22年)で第25回目を迎えた。「競歩」と誤記されたり「狂歩」[注釈 2]と揶揄されたりすることもあるが、「強歩」が正しい表記である。大田原高等学校ではこれを「自分の限界の向こうにある無限に挑戦する」[10] 意味の表現であるとしている。
規模
- 人数:2007年(平成19年)度より全学年240名になったため、全生徒数は単純計算で720名となる。
- 範囲:大田原・那須塩原・矢板・那須の3市1町。
- 学校を出発し、学校を中心とした円状のコースを昼夜を通して周回し、再び学校に戻ってくる。
- 各自治体や生徒保護者の協力の下で行われ、随所に設けられる休憩所では水や食事が配られる他、医師が待機している。
内容
志願による脱落者やドクターストップや規定時間切れによる脱落者はその場で教諭らの車に収容され、治療を受けた後高校内の「和楽舎」と呼ばれる宿泊施設に送られ、体を休める。
この行事が開催される早朝には、県内のラジオ局である栃木放送で開催か否かの発表放送が流れる。雨天時でも基本的に実施ではあるが、過去に何度かあまりの天候不順で中止となったことがある。1990年(平成2年)に行われた第5回の強歩では午後から[11] 徐々に雨が降り始め、深夜にはコンディションが最悪の状態となったため、当時のコースで54.5km地点に当たる黒磯中学校[11] で続行困難と判断され中断となった。また、2010年(平成22年)の第25回の強歩においても同様の状態となり、現在のコースで55.2km地点に当たる黒磯北中学校で中断となった[12]。
2020年(令和2年)と2021年(令和3年)は中止、2022年(令和4年)は35kmに短縮して実施。2023年(令和5年)5月の第35回強歩は4年ぶりに本来の85kmのコースとしたが、初日である19日夕方に雨脚が強くなったのと、生徒が雨に降られて体力を奪われていることから、22km地点となる矢板市郷土資料館(当時[注釈 3])隣接の上伊佐野体育館にて校長が打ち切り宣言した
[14]。当初予定では18日を初日としていたが、18日の予想気温が30度超の気象予報のため熱中症予防の観点から1日順延していた[15] 。
行事の様子はとちぎテレビや下野新聞などの地元メディアのほか、NHKなどでも取り上げられることがある。
1986年(昭和61年)から開始されたこの行事は、企画の実施に当たって茨城県立水戸第一高等学校、山梨県立甲府第一高等学校で行われていた同様の行事を参考にしたという[16]。第1回は9月に行われたが、その後気象や日照条件を考慮して現在の日程に変更されている[10]。
第23回目の2008年(平成20年)にコースおよび休憩地点が大幅に見直され、特に夜間の行程については車道を避け山道を歩くコースへと改められた[10]。
寒稽古
毎年1月、大学入学共通テストの翌日の月曜日から1週間行われる恒例行事。不撓不屈の精神力の養成を目的としている[17]。
早朝6時30分に始まり[17][18]、終了後は8時35分から通常日課で授業が行われる。
明治時代に剣道から始まり、柔道、弓道、耐寒マラソンがのちに追加された[18]。この4種目があったころは、柔道・剣道・弓道部員を除く全生徒のおよそ8割が耐寒マラソンの部に参加していた。新型コロナウイルス感染症の流行の影響で、2021年と2022年は開催せず、2023年に再開してからは耐寒マラソンのみ復活した[18]。参加は任意制で、2024年は全校生徒570人のうち443人が参加を希望し[17]、初日は395人が疾走した[18]。校内に設定された1周約1キロメートルのコースを7周する[17][18]。最終日のみ校外へ出て、乃木神社前を通るぽっぽ通りコースで実施する[17]。
行事最終日である5日目には納会が行われ、寒稽古の3ヵ年全日程に参加した3学年の生徒が表彰される。また、保護者によって豚汁が振舞われる。
出来事
不発弾発見
2008年7月、敷地内にある校舎北側の倉庫内から長さ約55cm直径約20cmの鉄塊が公仕によって発見された。形状から砲弾の可能性があると判断したため、10月6日、栃木県教育委員会に報告。栃木県警に届け出た後、不発弾であるということが判明したため自衛隊に撤去を要請。同日17時に部活動や補習を中断し全生徒を下校させた後、20時半、陸上自衛隊朝霞駐屯地の東部方面後方支援隊不発弾処理隊によって撤去された。
撤去された不発弾は旧日本軍の21センチ砲弾の未使用弾とみられており、4割程度の火薬が残っていたものの信管がなかったため、強い火気を近づけるなどしない限り爆発の危険性はなかった。同校は第二次世界大戦中に旧日本軍陸軍が駐屯地として利用していたという記録が残っているため、終戦後に何らかの理由で砲弾が残され、そのまま保管されたという可能性もある。しかし明確なことは依然として分かっていない。
1970年の新校舎改築時に、旧校舎解体のがらくたの山から見つかっており、しばらく校舎の軒下に放置されていた。信管部分は、鋼板のキャップが施され、明らかに展示用に改造されたもので、創立80年記念の紫塚祭には模型として展示されていた。その後も校舎の軒下に置かれる状態が続いた。
雪崩事故
2017年3月27日、栃木県那須町湯本の那須温泉ファミリースキー場で雪崩が発生し、ラッセル訓練をしていた同校の山岳部員の生徒7人と引率の教員1人が死亡した。
脚注
注釈
- ^ 1951年に旧制中学から高等学校となって以降に作られた校歌(泉漾太郎作詞)にも「大高」という略称が使われている[1]。浸透した略称であり、例えば大田原高校のOBである芸能人、U字工事のブログにも「大高」の言葉が使われている[2]。
- ^ 第1回の強歩のスタートの様子を報じた1986年9月20日付けの下野新聞には、「強歩か狂歩か」という表現があったという。なお生徒たちのゴールを報じる翌日の同紙には成功を讃える記事が掲載されたという[9]。
- ^ 矢板市郷土資料館は2024年5月30日に泉きずな館に移設[13]
出典
参考文献
大田原高校の記念誌は、大田原市立大田原図書館に蔵書がある。
- 大高九十年誌編集委員会 編『大高九十年誌』栃木県立大田原高等学校、1992年9月30日。
- “栃木県立大田原高等学校ホームページ”. 栃木県立大田原高等学校. 2009年12月5日閲覧。
関連項目
外部リンク