川合 伸旺(かわい のぶお、1932年4月18日 - 2006年6月24日[4][5])は、日本の俳優、声優。愛知県豊橋市出身[4]。
悪役俳優として知られ、特に時代劇での悪代官役で著名であった[6][7]。
1945年、豊橋市立八町小学校卒業。同年に豊橋空襲で自宅を失う[8]。
終戦後、通学する豊橋中学校が新学制度により、愛知県立時習館高等学校となる[9]。在学中は美術部に在籍しており、演劇部のため書き割りを描いてた際に「役者が足りないからちょっとやってみて」と言われたことがきっかけで俳優を目指す[10]。1949年の高校卒業後は上京し、1951年、舞台芸術学院本科卒業[1][4]。
卒業後は劇団青俳へ入所[1][11]。『反応工程』『モンセラ』などの舞台に立つ傍らで、1956年公開の映画『道』に「河井信旺」名義[12]で映画初出演を果たした[11]。
1959年、映画『女子大学生 私は勝負する』に現名義で初出演[13]。同年には、海外ドラマ『コルト45(英語版)』の吹き替えで声優としてもデビューした[14]。
1962年、テレビドラマ『献身』でヒロイン(小畠絹子)をいじめる青年実業家の役を演じる。以降は様々な作品で悪役を演じ、悪役俳優としての地位を確立した[15]。
1965年、劇団NLTに移籍[11]、同劇団分裂後は三島由紀夫が主催していた浪曼劇場に所属していた[16]。
1971年からフリーランスとなり[11]、その後はプロモーション・プラスワン[1]からエ・ネストを経て、再びフリーで活動。
2003年末、腹部大動脈瘤の手術中に脳梗塞を発症[8][17]。以降は出演予定だった舞台などを降板し[18]、闘病のため芸能活動を休止していた[8]。
2006年6月24日19時56分、脳梗塞のため東京都中央区の病院で死去[7]。74歳没。葬儀は、同月30日に代々幡斎場で営まれた[19][20]。遺作は、2003年12月24日放送の『はみだし刑事情熱系 クリスマス2時間スペシャル』となった。
数々の時代劇や刑事ドラマで悪役として活躍する一方、『激突! 殺人拳』では温厚・沈着冷静な空手家を、『翔んでる!平賀源内』ではドジな町奉行をコミカルに演じ、幅広い役をこなしていた[6]。
最初に人前で芝居をしたのは、小学1年生の学芸会での「花咲かじいさん」であり、この時から悪いお爺さん役だったという。当時は子供だったため推薦で決まったこの役が嫌だったが、学級委員長を務めていたために先生からも「級長がみんなの前でそんなことができないようじゃダメだ」と言われ、仕方なくやったとのこと[10]。
悪役に関しては「悪が強くないと盛り上がらない」との持論を持っていた[6]。悪役をやっていて良かったことには「人間として間違わないこと」を挙げている[21]。
役者としてのプロ意識が高いことで知られた。舞台で主演俳優に斬られることとなった際、躊躇せず後ろから倒れるためマネージャーが「けがをするからやめてください」と頼むも、最後までそれを崩すことはなかったという[17]。これに川合は、アザだらけになるも「必死でやらないとお客さんに失礼」との考えからやり通したと述べている[15]。
プライベートでは大変気さくな穏やかな人柄であった。優しくまめな性格で、自宅でも妻の家事をよく手伝っていたという[17]。
1969年、劇団NLTで知り合った市川靖子と再婚。同年9月7日、日枝神社で挙式[22]。1971年2月に長女、1972年8月に長男が誕生[22]。後に離婚し、1985年に再婚した[23]。1992年時点では、4歳になる子どもがいることを本人が語っている[24]。
趣味・特技は、射撃と歌[14]。また、1980年代には小学生時代から好きだったという絵を再開。1987年から色紙絵を始めており、晩年は画家として個展を開催していた[8][17]。
時代劇では『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』など悪代官役で定評があり、ファンの間では“ミスター悪代官”の愛称で親しまれた[6]。「お主も悪よのう」の決め台詞など、悪代官のイメージを確立させた第一人者とも言われる。
悪代官役を始めた頃、当時は新劇出身だったために刀も持ったことがなく何もできず、共演者から厳しくされ苦労していた。そんな時、その子分役で出演するベテランの時代劇俳優たちから「僕ら主役に斬られるための悪役をやってるんじゃないよ。川合さんが演じている代官の子分をやってるんだ。代官を信用して守っているから、斬られて死んでいくんだ。だからどうか、川合さんももっと勉強して欲しい」と言われたことで感銘を受け、「確かに下手な殺陣をやってる親分には誰もついてこないし、見ててかっこがつかない」と専門家のもとで必死に勉強したという。この経験から、「時代劇は基本をわきまえた人しかやったらいけない、それくらい厳しいものだと思っています」と語っており、若手に対しても「『最初はできなくてあたりまえ』なんて思ったらよくない」「もし演技で不安があったら、撮影中でも『今のとこ、あれで良かったでしょうか?』ってどんどん先輩に聞けばいい。教えてくれるのを待っていたら進歩しないです」と述べている[10]。
街頭で通り掛りの子供達から「悪代官だ!」と声を掛けられても、決して嫌な顔をせず、笑顔で手を振って答えていたという。これに川合自身は「子供達が私の名前を知らなくても、顔を見ただけで『時代劇の悪代官の人だ!』と言われるのは、役者としてとても嬉しいことです」と語っていた[要出典]。その一方、同級生の友達から「テレビに川合伸旺が映っても、あれはお父さんの友達だぞって子どもに言えないんだよなぁ」と言われた時は「もし僕が正義の味方の役だったら、友達も威張れるのにな」と寂しさを覚えたという[21]。
『水戸黄門』には49回出演。2003年時点で、悪代官としては歴代2位の出演回数であった[10]。
「お主も悪よのう」の決め台詞は、同じく時代劇の悪役で著名だった田口計と共にカンロのど飴のCMに出演した際に考案された。最初は違う台詞が用意されていたが、撮影をするうちに二人でこの台詞に変えてしまったといい、そのCMが有名になったことで定着したという。なお、この経緯から実際のドラマで台詞を披露したことはあまりないという[21]。
その人気の高さから、アルフレックスにより川合の悪代官姿をモデルにしたフィギュア人形が発売されたほどだった[6]。川合自身はフィギュア化を非常に喜びつつも「こんなものが売れるのかな」と心配していたが、即完売したという。
声種はバリトン[25]。
主に吹き替えで活躍。ジェームス・ディーンやマーロン・ブランドの吹き替えを担当し、時代劇で見せる悪役のイメージとは正反対の正統派な役を多数演じていた。中でも、ポール・ニューマンの吹き替えは「ムードが似ている」という理由で起用されて以降、ほぼ専属で担当していた[26]。
声優業について、声を作るなど技術的なことはできないため「中身」を大切に演じており、「自分に近いものにして欲しいとその俳優が望むと考えて、ぼくは芝居のムード作りに非常に重点を置いてアテています」と語っている[26]。また「ぼくは時代劇ばかりやっているんで、時代劇しかできないと思われているかもしれませんが、ジェームス・ディーン、マーロン・ブランド、ポール・ニューマンの芝居は、自分の役者としての大事な手本でした。その意味でも、アテレコをやらせてもらったのは非常に幸せだったと思います」と述べている[26]。
ポール・ニューマンについて川合は、チャーミングな表情と知的センス、甘さ、型破りなものなど、ニューマンの持つものを大切にしながら演じたという。また「ぼくは悪役のイメージが強いから、アテていても今にイメージダウンになるのじゃないか」と心配しており、「時々、ぼくの顔を忘れて(声を)聞いてほしいです」というコメントを残している。ニューマン出演作で好きな作品には『ハスラー』を挙げている[26]。
思い出深い出演作には、『レッド・サン』での三船敏郎の吹き替えを挙げている[14]。三船本人から「どうしてもやってくれ」と頼まれ担当したという[26]。
川合の死後に持ち役を引き継いだのは以下のとおり。
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