能勢 頼一(のせ よりかず)は、江戸時代中期の旗本。江戸北町奉行。通称は甚四郎。官位は従五位下肥後守。
略歴
能勢頼雄の子。室は竹田政就の娘。子女は菅沼武勝室、能勢一英、ほかに女子ひとり。
父・頼雄が没し、元禄3年(1690年)12月に1歳で跡目相続し小普請となった。宝永4年(1707年)11月、小姓組番士、宝永6年(1709年)12月に小納戸、享保12年(1727年)6月、小十人頭を歴任し、同12月、布衣を着することを許された。享保14年(1729年)11月、小姓組組頭に昇進し、享保20年(1735年)10月、目付となった。
寛保元年(1741年)には、500石を加増されそれまでの蔵米100俵も知行地に改められ、武蔵国埼玉郡、上野国邑楽郡内600石を知行することとなった。延享元年(1744年)6月には町奉行にまで昇進し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。宝暦3年(1753年)3月、西ノ丸旗奉行となった。
宝暦4年(1754年)11月、職を辞し寄合となり、宝暦5年(1755年)5月に66歳で没した。
登場作品
参考文献
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