小塚 崇彦(こづか たかひこ、ラテン文字:Takahiko Kozuka, 1989年2月27日[1][3] - )は、2000年代から2010年代にかけて活躍した日本のフィギュアスケート選手(男子シングル)。愛知県名古屋市瑞穂区出身。最終学歴は中京大学大学院体育学研究科体育学専攻博士前期課程修了。現在はトヨタ自動車に所属する傍ら、プロフィギュアスケーター・フィギュアスケートデモンストレーターとしてフィギュアスケートを始めとしたスポーツの普及活動を行う。JOCオリンピックムーブメント・環境アンバサダー兼委員。スペシャル・オリンピックス日本ドリームサポーター。一般社団法人日本フィギュアスケーターズ協会代表理事。元選手の経験を生かし、ブレードやシューズなどスケート用具の開発にも取り組む。[1]
主な実績に、2010年バンクーバーオリンピック8位、2011年世界選手権2位、2008年GPファイナル2位、2010年全日本選手権優勝、2006年世界ジュニア選手権優勝など。
人物
中京大学附属中京高等学校卒業[3]。2007年4月よりトヨタ自動車に所属しながら中京大学体育学部に社会人学生として進学[2]。2011年4月より中京大学大学院体育学研究科体育学専攻博士前期課程に進学、2016年3月に修了した。
祖父の小塚光彦(1916年 - 2011年)は旧満州のフィギュアスケートチャンピオン[4]。帰国後は愛知県スケート連盟、オリオンFSCを創設し、山田満知子や門奈裕子らを育てた。父の小塚嗣彦は1968年グルノーブルオリンピック男子シングル日本代表[4]。母の小塚幸子(旧姓・坂野)、叔母の坂野浩子もフィギュアスケート選手だった。そのため、『日本フィギュア界のサラブレッド』とも呼ばれる[5]。現在、愛知県には光彦の名を冠した「小塚杯」が開催されている[6]。
佐藤家と小塚家の関係は古く、信夫の母は父・嗣彦の最初のコーチであり[7]、信夫は嗣彦がオリンピックに出場した当時のコーチでもある[6]。また、母・幸子がスケートを始めたのは、近所に住んでいた久美子にリンクへ連れられていったことがきっかけである[8]。
無駄のない滑らかなスケーティングとエッジを深く使ったステップ、正確な技術を持ち味とする[9][10]。2008-2009のフリープログラム「ロミオとジュリエット」の衣装がシンプルなのは、足元のエッジ捌きが映えるように上半身を目立たなくさせようという振付師、佐藤有香のねらいによる[11]。
荒川静香は小塚について、スケート以外のスポーツでも少しかじればすぐにできるようになるほど運動神経がいいと語っている[12]。
2016年4月1日より1年近くの間、トヨタ自動車の社員としてスポーツ関連の部署で社業に専念していた[13]が、翌年2月1日、トヨタ自動車・強化運動部の業務と並行して、10か月ぶりに再びスケート界へ携わる事を表明。
プライベートでは、2016年2月20日にフジテレビアナウンサーの大島由香里と結婚[14]。同年6月18日、結婚披露宴を行った[15]。翌2017年4月25日、第1子となる女児が愛知県内の病院で誕生したが、2019年12月に離婚[16]。
競泳の入江陵介とは中京大学近くのゴルフ場で知り合って親しくしており[17]、立石諒とも親友である。
また、同じフィギュアスケート選手の浅田真央とは名古屋市出身の幼馴染である。2017年4月10日に浅田が公式ブログにおいて現役引退を公表した翌11日に、小塚はフジテレビ系列「バイキング」に出演し、プライベートで浅田から直接に引退を打ち明けられていたと語っている[18]。
経歴
ジュニア時代
5歳の時、佐藤有香の世界選手権優勝の演技を現地で観戦し、そのスケーティングに魅了されたことがきっかけで本格的にスケートを習い始める[19]。当初、両親の指導のもとで研鑽を重ねてきたが、小学生の頃から佐藤信夫・久美子夫妻の指導を受けている。
全日本ノービス選手権Bクラス2連覇(1998-1999、1999-2000)、同Aクラス2連覇(2000-2001、2001-2002)。1999-2000には全日本ジュニア選手権に初出場し、9位に入っている[20]。ジュニア3年目の2004-2005シーズン、全日本選手権のショートプログラム (SP) でシニアの選手を抑えて1位に立ち、注目を浴びる。
2005-2006シーズン、ISUジュニアグランプリ (JGP) 初戦のJGPモントリオールで2位、2戦目のSBC杯で優勝。JGPファイナルでは日本人男子選手初制覇の快挙を成し遂げた。全日本ジュニア選手権も制し、世界ジュニア選手権では日本人男子として髙橋大輔、織田信成以来3人目の優勝を果たした[21]。
シニア以降
バンクーバー五輪出場・8位入賞
2008GPファイナル
2009四大陸選手権
2006-2007シーズンからシニアに参戦し、ISUグランプリシリーズ(GPシリーズ)2戦目のNHK杯で総合3位となり、早くも初の表彰台に上がった。
2007-2008シーズン、4度目の出場となった全日本選手権で2位となり、四大陸選手権と世界選手権行きの切符を手にした。四大陸選手権は8位に留まったが、自身初出場の世界選手権では総合8位と健闘し、翌2009年大会の日本男子シングル出場の3枠確保に貢献した。
2008-2009シーズン、初戦のスケートアメリカでGPシリーズ初優勝を果たし、日本人男子4人目のGPシリーズ優勝者となった。続くエリック杯で総合2位になり、初めてGPファイナルに進む。GPファイナルではSPで首位に立ったが、FSで2度の転倒があり、総合2位となった。四大陸選手権ではフリーの4回転トウループで転倒するも認定され、総合3位に入り銅メダルを獲得[22]。このシーズンはFSで4回転トウループに挑み続けていたが、世界選手権では4回転抜きの確実な構成で臨み[23]、同大会で日本男子最高の総合6位。総合7位だった織田信成との順位合計は「13」となり、目標に掲げていた翌2010年バンクーバーオリンピックの出場枠「3」をギリギリで確保した。
2009-2010シーズン、全日本選手権で3位に入り、自身初のオリンピック代表に選出される。バンクーバーオリンピックにおいては、SPは3回転アクセルの着氷が乱れたものの無難にまとめて8位スタート。FSは4回転トウループが若干両足になるも試合では初めて着氷に成功し、五輪の大舞台で総合8位入賞を果たした。なおバンクーバー五輪に出場した日本男子選手で、3人の内では最下位だった(ほか髙橋大輔3位・織田信成7位)ものの、小塚ただ1人が4回転ジャンプが認定されて[24]、過去五輪代表の日本男子選手では史上2人目[25]の快挙達成となる[26]。続く世界選手権ではSPで4位につけたが、FSの高難度ジャンプの失敗が響き総合10位に終わった。シーズン終了後、上半身の強化と表現力の向上に力を注いだ。
世界選手権・銀メダル獲得
2010-2011シーズン、GPシリーズは中国杯、エリック杯と連続優勝。ポイントランキング1位の成績で進出したGPファイナルでは総合3位となった。7度目の出場となった全日本選手権で初優勝。かつて全日本3連覇を果たした父に続き、男子では史上初の全日本親子制覇となった。東日本大震災の影響で1か月延期、日本・東京からロシア・モスクワに代替開催となった世界選手権では、予選をトップで通過。SPでは3回転アクセルの失敗で6位と出遅れたが、FSでは4回転トウループを国際試合で初めてクリーンに決めるなど、他ジャンプもミス無く完璧な演技を披露。全員のジャッジが全ての演技要素に、1点以上のGOE加点を付ける高得点でFS2位となり、総合2位に入り世界選手権で自身初の銀メダルを獲得し、日本男子選手としては史上4人目の同大会メダリストに輝いた。
2011-2012シーズン、GPシリーズはスケートアメリカで3位、NHK杯2位となるも、GPファイナル進出はならなかった。連覇のかかった全日本選手権では、SPで回避した4回転トウループをFSでクリーンに決めたが、後半の3回転アクセルの転倒がひびき、3.63点差で逆転優勝ならず2位に留まったが、5回目の世界選手権への出場を決めた。しかし期待された世界選手権ではSP・FS共に4回転トウループの着氷に失敗し、他のジャンプにもミスが目立ち総合11位に敗れ2大会連続のメダル獲得はならなかった。世界国別対抗戦も自身の成績は総合6位に留まったが、日本代表としては同大会初の総合優勝を果たしている。
2012-2013シーズン、GPシリーズは初戦のスケートアメリカで自己ベスト更新のSP2位から逆転優勝、2戦目のロステレコム杯で2位。通算3度目のGPファイナルの進出を決めたが、総合5位に留まった。全日本選手権では本番前に足の怪我を抱えながら強行出場するも、総合5位に終わり6年ぶりに表彰台を逃した。大会後の検査で、右足の腱鞘炎により全治1ヶ月と診断された。[27]怪我の影響によりエントリーしていたチャレンジカップを欠場。ガルデナスプリング杯で大会復帰し優勝した。
ソチ五輪落選
2013-2014シーズン、スケートアメリカで6位と不調、中国杯では3位に留まりGPファイナル進出を逃す。全日本選手権では3位となるも、グランプリシリーズの成績不振が響いて、ソチオリンピックの代表には惜しくも選出されなかった。四大陸選手権では、優勝した無良崇人に次ぐ総合2位で銀メダルを獲得[28]。世界選手権代表は当初補欠選出だったものの髙橋(ソチ五輪6位)がケガによる出場辞退で、小塚が急遽繰り上がり同大会2年ぶりに出場[29][30]。準備期間が僅か3週間の調整ながらもSP・FS共に6位の総合6位に入った[31][32]。
2014-2015シーズン、スケートカナダでは8位、ロステレコム杯は6位で2007-2008シーズン以来初めて両方の大会でメダルを獲得できなかった。全日本選手権ではSP6位だったもののFS2位と逆転し、同大会で2年連続3位の表彰台に登り、2年連続通算7回目の世界選手権代表入りを決める。しかし、世界選手権のSPでは3つのジャンプ全て失敗し19位と大きく出遅れてしまい、FSは1番滑走で順位を上げる(FSのみは9位)も、過去ワースト成績の総合12位に終わった。
4月11日、東京都内で開催のトークショーに出演。その際に小塚自ら「4月から大学院に復学しました。修士論文があるため、スケートを3か月間は休みます。その間に今後どうするかを考えたい」と、同年夏頃にスケート選手としての進退について決断する事を明らかにした[33]。
2015-2016シーズン、現役続行を決めたものの左足首腱鞘炎により中国杯を欠場[34]。ロステレコム杯ではGPシリーズで過去最低の9位に沈む。全日本選手権でも5位に留まり、四大陸選手権及び世界選手権共に代表落ちとなった。
現役引退後
2016年3月15日、自身の公式ブログサイトにて、昨年12月の全日本選手権を最後に、今シーズン限りでの現役引退を発表(連盟には所属のトヨタ自動車経由で2016年3月末日をもっての引退という内容で届出)した[35]。
同年4月17日、「スターズ・オン・アイス」の東京公演にて、演目は、坂本龍一の「エピローグ」で現役最後を飾った。引退後は一旦フィギュアスケート界から去り、所属先であるトヨタ自動車の一従業員として、強化運動部での社業に専念していた。
2017年2月1日、「Sports Graphic Number」でのインタビューで小塚は「これからは自分の技術を伝えることで、フィギュアスケート界に恩返しをしたいと考えています」とコメント、所属中のトヨタ自動車・強化運動部の業務と並行して、10か月ぶりに再びスケート界へ携わる事を表明[36]。同年7月14日から「プリンスアイスワールド東京公演」へ出演し、現役引退以来1年3か月振りにアイスショーへ復帰した[37]。
2018年1月には、レーシングチームの『埼玉トヨペット Green Brave』が開催する育成プログラム入りすることが発表され、国内最大規模を誇る自動車のワンメイクレースの86/BRZレースへの参戦を目指してトレーニングを行った[38]。同年7月、富士スピードウェイで同レースデビューを飾っている[39]。またこの縁で8月には、ラリージャパン復活に向けた『WRC招致応援団』の一人にも選ばれている[40]。
2018年4月24日、地元・名古屋市内の企業と共に開発され、小塚自ら「99%同じ製品が出来上がります」と宣伝した、フィギュアスケート用の新ブレード販売を発表[41]。
2018年12月、子どもから一般までを対象とした短期フィギュアスケート教室「小塚アカデミー」を始動。全国各地での出張教室も行い、フィギュアスケートの普及に努めている。
2019年7月1日より、FORM JAPAN ENTERTAINMENT所属。
主な戦績
詳細
プログラム使用曲
表彰
- 2006年
- 2007年
- 2010年
- 名古屋市スポーツ功労賞
- 愛知県スポーツ功労賞[50]
- 文部科学省・文部科学大臣表彰
- 2011年
出演
テレビ
出版
- 小塚崇彦写真集 『TAKAHIKO』 緒方秀美・撮影(学研・2011年12月13日)
- 『ステップ バイ ステップ』 小塚崇彦・著(文藝春秋・2012年1月11日)
- 『フィギュアスケート観戦ガイド テレビ観戦でわからなかったことがすべてわかる』 小塚崇彦・監修(マイナビ出版・2019年10月30日)
- 『フィギュアスケート 氷の上で感じた世界』 小塚崇彦・著(扶桑社・2019年12月20日)
脚注
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
小塚崇彦に関連するカテゴリがあります。
関連項目 |
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1929年 – 1999年 | |
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2000年 – | |
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※ 開催年は年度 1929-65年度は翌年1-4月、1966-81年度は同年11-12月、1982-96年度は翌年1月、1997年度以降は同年12月に開催された。
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名称の変遷: スケートアメリカ(1979年-現在) / ISUグランプリシリーズ スケートアメリカ(1995年-現在) |
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名称の変遷:ラリック杯(1987-2003)/ISUグランプリシリーズ ラリック杯(1995-2003)/ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯(2004-2015)/フランス杯(2016)/フランス国際(2017-2021)/フランスグランプリ(2022-) |
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