宮本 勝文生年月日 |
(1966-03-19) 1966年3月19日(58歳) |
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出身地 |
大阪府 |
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大学 |
同志社大学 |
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ラグビーユニオンでの経歴 |
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ポジション |
フランカー |
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アマチュア経歴 |
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年 |
チーム |
出場 |
(得点) |
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大阪工大高校 同志社大学 |
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シニア経歴 |
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年 |
チーム |
出場 |
(得点) |
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1988-1994 |
三洋電機 |
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代表 |
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年 |
チーム |
出場 |
(得点) |
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日本 |
10 |
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更新日: 2015年9月 | コーチ歴 |
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年 |
チーム |
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三洋電機 同志社大学 |
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宮本 勝文(みやもと かつふみ、1966年3月19日 - )は日本の元ラグビー選手。ラグビー指導者。
プロフィール
経歴
大阪工業大学高校、同志社大学を経て、1988年に三洋電機(現パナソニック ワイルドナイツ)に入社。学生の頃からパワフルな突破力を武器に、日本代表として第1・2回ラグビーワールドカップに出場する。
その一方で、国内での所属チーム(大学時代を含む)の戦績は最高でも準優勝に終わり現役時代は『悲運の闘将』と称される。特に1991年1月の全国社会人大会決勝対神戸製鋼(現神戸製鋼コベルコスティーラーズ)戦では後半ロスタイムに相手ウイング・ウィリアムスに同点となるトライを決められ、途中交代した宮本の無念の表情は当時の監督・宮地克実とともに全国のラグビーファンに強烈な印象を残した。その後も宮地・宮本は神戸製鋼に挑み続けるがことごとく敗退。
1994年1月の全国社会人大会を最後に、持病であった膝の痛みもあり27歳の若さで現役引退する。
引退後は香港に赴任し社業に専念。ラグビーの現場から距離を置いていたが、2004年10月に前監督・柴田浩一の解任に伴い監督に就任し10年ぶりにラグビー界に復帰する。
翌2005年シーズン、チームは開幕から8連勝したが途中で失速しトップリーグ優勝を東芝府中に奪われる。
2007年シーズンはリーグ戦を全勝するもマイクロソフトカップ決勝で敗退、その後日本選手権決勝でサントリーに雪辱し、チームに初の日本選手権優勝をもたらした。
2008年4月1日付けで三洋電機海外営業本部地域営業統括部長に就任し、再び社業に専念している。
2011年に社業の傍ら、同志社大学ラグビー部の監督に就任。就任1年で関西リーグ2位となり、大学選手権では帝京と死闘を演じた。
2012年シーズンをもって同志社大学監督を退任。13年4月に三洋電機執行役員に就任し、再び社業に専念している。
エピソード
- 2004年9月18日トップリーグ開幕戦 三洋対リコー、宮本は花園ラグビー場のJスポーツ中継席に座っていた。ラグビー部OBとして彼が解説をつとめたこの試合に三洋は惜敗、その後も連敗を止めることができず監督の柴田は解任され、数日前に解説席に座っていた宮本が新監督に就任することになる。解説をつとめていた開幕戦に勝利していれば、彼が監督に就任することはなかった。
- 現役時代は神戸製鋼と6回対戦し全敗であったが、監督としては逆に4戦全勝。監督就任後の初勝利も神戸製鋼戦という相性の良さであった。
- 2007年シーズンマイクロソフトカップ決勝戦後の記者会見でのサントリー監督・清宮克幸の発言「今日の勝敗を分けたのは、今シーズンたまたま調子が良かったチームと、そうでないチームとの差」に反発。日本選手権準決勝でトヨタ自動車に勝利し、サントリーとの再戦が決まると「サントリーには絶対に負けたくない」と語気を強めた。
参考文献
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1930年代 (17名) | |
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1950年代 (25名) | |
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1960年代 (13名) | |
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1970年代 (20名) | |
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1980年代 (24名) | |
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1990年代 (27名) | |
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2000年代 (44名) | |
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2010年代 (43名) | |
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2020年代 (16名) | |
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