豊田 将万(とよた まさかず、1986年(昭和61年)5月15日 - )は、日本の元ラグビー選手。ジャパンラグビートップリーグのコカ・コーラレッドスパークスに在籍していた。早大時代一年目からレギュラーに定着し、1年・3年・4年と優勝に貢献している。身長189cm、体重108kg。
人物
高校まで
3歳から地元福岡にある「かしいヤングラガーズ」でラグビーを始める。
東福岡高等学校では、1年時は控え選手だったが、2年時はNo.8として全国高等学校ラグビーフットボール大会(通称:花園)に出場しベスト8。3年時はキャプテン(LO)として花園に出場し、準々決勝で僅差で敗れるも、上田一貴[1]率いる啓光学園と熱闘を繰り広げた。
高校時代はサッカー日本代表の長友佑都と同級生でランチ仲間だった。
大学時代
早稲田大学時代は、1年生の春からレギュラーに定着し、大学日本一に輝き、日本選手権2回戦では格上のトヨタ自動車ヴェルブリッツに大金星を収める。
2年生になり肩の怪我に悩まされるも、チームはなんとか大学選手権決勝まで登り詰め、関東学院との決勝戦に臨んだが、完敗する。
3年生になり委員に選出され、プレーも自覚も大きく変わる。チームは下馬評どおり勝ち進み、決勝戦では慶應大学に圧勝し、荒ぶるを奪還する。個人タイトルでは対抗戦のトライ王に輝く。
4年生になり第91代主将に選出される[2]。チームスローガンの「Dynamic Challenge」のもと春から快進撃を続けるも、対抗戦で帝京大学に破れ連勝を58で止め、大学選手権に出場できない明治大学にも破れる。大学選手権では初の抽選会の末、一昨年まで毎年覇権を争っていた関東学院と1回戦で対戦が決まり、生まれ変わった姿で勝利を収め、つづく2回戦では筑波大学、準決勝では東海大学と順当に勝ちを収め、決勝戦では、帝京大学と再戦の末、見事にリベンジを果たし、荒ぶるを掴み取る。また、優勝後のインタビューでの「やばいっす。」が話題を集める[要出典]。
社会人
2009年、コカ・コーラウエストレッドスパークス(現・コカ・コーラレッドスパークス)に加入[3]。同年9月5日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節の近鉄ライナーズ戦にて先発出場で公式戦初出場を果たす[4]。
2012年、コカ・コーラウエストレッドスパークスの主将に就任した[5]。
2019年3月、2018年度をもって現役を引退する[6]。引退後は社業に専念[7]。
代表歴
- 2004年(平成16年) - U-19日本代表(南アフリカ大会)
- 2004年(平成16年) - 高校日本代表(NZ遠征)
- 2006年(平成18年) - 7's日本代表(スペイン遠征)
- 2009年(平成21年) - 日本代表(アジア5ネーションズ、パシフィックネーションズ)
脚注
関連項目
外部リンク
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1930年代 (17名) |
- 三島実
- 知葉友雄
- 吉沢秀雄
- 和田志良
- 清水精三
- 大野信次
- 岡田由男
- 都志悌二
- 足立卓夫
- 真野喜平
- 米華真四郎
- 田治正浩
- 田川博
- 伊藤英夫
- 山口和夫
- 鍋加弘之
- 山本春樹
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1950年代 (25名) |
- 田中昭
- 橋本晋一
- 藤井厚
- 高橋勇作
- 広畠登
- 竹谷武
- 土屋俊明
- 大和貞
- 北島輝夫
- 原田秀雄
- 梅井良治
- 松重正明
- 真野克宏
- 柴田孝
- 山崎靖彦
- 須藤孝
- 小原隆一
- 片倉胖
- 尾崎政雄
- 田中聖二
- 大塚謙次
- 宮島欽一
- 冨永栄喜
- 龍野和久
- 山田敬介
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1960年代 (13名) | |
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1970年代 (20名) | |
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1980年代 (24名) | |
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1990年代 (27名) | |
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2000年代 (44名) | |
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2010年代 (43名) | |
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2020年代 (13名) | |
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