国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW(こくさいせいねんねんきねん オール トゥゲザー ナウ)は、1985年6月15日に国立競技場にて行われた大規模なジョイントコンサート。正式名称は『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW by LION』(こくさいせいねんねんきねん オール トゥゲザー ナウ バイ ライオン)。
主催:日本民間放送連盟/国際青年の年推進協議会、後援:国際青年年事業推進会議/文部省/労働省/郵政省、協賛:ライオン。
国際連合にて1985年に採択された「国際青少年年(英語版)」を記念し、1985年6月15日に国立競技場にて行われた大規模なジョイントコンサート[1][2][3][4][5][6]。大規模ロック・フェスティバルの草分けとされる[7]。『週刊明星』(集英社)1985年5月2日号に「日本版『ウッドストック』がついに実現!日本の音楽シーン史上始まって以来の超ビッグ・イベントが開かれる」と記述されている[8]。同じく開催を伝える『シティロード』(エコー企画・西アド)1985年5月号には「日本の主だったニューミュージック系アーティストがこの日はみんな国立競技場に集まるといっても過言ではない」[9]「スローガンは『参加』『開発』『平和』」[9]「ベテランアーティストが多いのに"国際青年年"というのは何か妙な感じ」などと書かれている[9]。
当時、第一線で活躍していたミュージシャンが一堂に会して行われた[1][3][6][8][10][11][12][注 1]。観客動員数は63,000人[5][11][注 2]。チケット予約2万件[8]。ライブ時間4時間半[2]。総予算3~4億円と言われている[8]。
国立競技場を本格的な音楽イベントとして使用した最初のケースである[3][4][12](国立競技場)。同会場をコンサート会場として使用する際には、天然芝の保護など規制が厳しいといわれるが[4]、日本民間放送連盟主催というお墨付きがあったため審査をパスしたといわれる[4][10][14][15]。
1982年に小田和正が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走して、吉田拓郎や松任谷由実や矢沢永吉、さだまさし、松山千春、加藤和彦らを集めて飲み会をしたことが前史[4][12][16][17][注 3]。この時、小田が亀渕昭信にも構想を話したことが本コンサートの開催に繋がっているという[12][16][17]。その後も小田と吉田が中心になって"日本グラミー賞"構想は進められていたが、放送局の壁や色んな利害関係があって実現出来ず、1985年になってこの年が「国際青年年」なので、音楽の力で何かやれないかと日本民間放送連盟が提案、小田と吉田がリーダーシップを執って本コンサートの開催が実現した[12][15]。
1983年11月22日深夜、翌日40歳になる小室等を祝うため、渋谷のカフェバーに小室、吉田拓郎、小田和正、井上陽水、北山修、杉田二郎、かまやつひろしらが集まった[18]。40歳を目前に控える拓郎と北山修を中心に議論が白熱したのが「日本で何故ウッドストックがなかったのか」だった[18]。勿論これまで日本でも大規模コンサートは開催されてはいたが、ウッドストックの観客40万人は桁違いで、日本もようやく"音楽世代"と呼ばれる層が出てきたことから「10万人規模のコンサートをやれないか」がこの日も大きなテーマになった[18]。
南こうせつは自身の発案と述べており、「当時、アフリカの子どもたちの飢餓救済のために、イギリスやアメリカの大物アーティストが垣根を越えて大きなコンサートをやるらしい、という話を聞き、日本でもアーティストが集まってワクワクするベネフィットコンサートができないものかと思い、すぐに拓郎に話を持ちかけた。彼は『いいね、それ』と乗ってくれた」[6]、それで南がユーミンや加藤和彦、財津和夫ら、知り合いのミュージシャンに声をかけ、「実はこういう企画があって、日本民間放送連盟が協賛したいっていうんだけど、どう思うって聞いた。そうしたらユーミンが『私たちはラジオから出てきたから、それはOK。でも一夜限りのコンサートでテレビ放送はしない』という条件を出し、夢のコンサートが実現した」と話している[6]。
松任谷正隆は「元々、亀渕昭信さんが国立競技場での最初のイベントをユーミン単独でやろうとしたもので、僕が日本民間放送連盟主催で行うなら、ユーミン単独ではなく、たくさんのミュージシャンを集めたイベントにしようと提案した。それで僕と亀渕さんで出演者を選び、各ラジオ局のスタッフが持つパイプを使って交渉を進めた。『今だから』の競作も僕のアイデアで、由美さんは『何でこの人たちと?』と言っていた…自身はユーミン色を出さないようにと裏方に徹し、リハーサルなどの現場には一度も行かず、コンサート当日もスタンドから観た」などと述べている[4]。
当時、民放ラジオ局64社の制作演出部会長だった亀渕昭信は「すべてステージの演出はミュージシャン任せ。彼らひとりひとりが極秘にその演出を考えたものです。全員が一緒にやりたいという理由で参加してくれました」と話した[8]。司会進行役は自ら買って出た吉田拓郎[8]。拓郎は「これだけのアーティストが一堂に会するんだから楽屋は大騒ぎだ。いろんな連中とセッションして、みんながアッと驚くようなことをやるつもりだ」[8]、ユーミンは「自分でも予想もつかない興奮が味わえそう」[8]、南こうせつは「大活躍している日本のミュージシャン同士がいつか一緒のステージでプレイできないものかというのはボクの夢でした。これはお客さんとボクらの新たな出発でもあるんです」[8]、イルカは「ニューミュージックって少数派でしょ。昔はみんなで集まらないと主張できなかったけど、今はみんなが一人歩きするようになってしまった。こうせつさんや拓郎さんとも、よく飲んでいるときに昔のようにやれたらネと話してたんです。こうせつさんは終わった後の宴会まで考えているんですよ。みんなとやれるなんて懐かしいわ」[8]、武田鉄矢は「当日は裏方に徹してお祭り気分を盛り上げる」と話した[8]。
競技場のグラウンドの中心には8つの円形ステージがステージ下にレールを敷いた状態で放射状に設けられ、各ステージでは出演するミュージシャン毎に使用される楽器を配置、その8つのステージを使用する出演者がステージに上がる(上がった)際にそのステージがレールにより真ん中に移動され演奏が行われた[3]。なお、このイベントに使われたマイクは300本以上、アンプも200台。
当時の国立競技場は、1席毎に座席が分かれていないブロックもあったため、チケットは一旦ブロック指定にて発売され、そのブロック指定券を公演当日の開場時刻前にブロック毎の列指定席券と交換し、その列指定席券に指定された列の座席にて観客はコンサートを鑑賞した。
メインMC(総合司会)は吉田拓郎[4]。加藤和彦からはっぴいえんどから新人をコントロール出来る存在は吉田拓郎しかいない[4]。これは絶妙の人選といえた[4]。
はっぴいえんどとサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)の再結成の他、吉田拓郎、オフコース、佐野元春、サザンオールスターズ、さだまさし、南こうせつ、チェッカーズ、THE ALFEE、山下久美子、坂本龍一、武田鉄矢、財津和夫、イルカ、白井貴子、アン・ルイス、ラッツ&スターらが出演し、再現は不可能な顔ぶれが揃った[4][19]。これらのメンバーは当時は「ニューミュージック系アーティスト」と一緒くたに呼ばれていた[9]。藤井フミヤは「とにかく小田(和正)さんの声がすごかった」「人が多過ぎてあまり緊張しなかった」「吉田拓郎さんとオフコースの組み合わせはすごかった。声の質が違うのに、この2組がよく一緒にやったなと思った」などと述べている[5]。
吉田拓郎、オフコースから始まり、はっぴいえんど、松任谷由実を経由してトリが佐野元春、飛び入りゲストがサザンオールスターズという演奏順で世代交代を象徴する流れだったため[5][6]、後に細野晴臣か大瀧詠一のどちらかが「ニューミュージックの葬式」などと揶揄したとされる[2][3][4][20][21][22]。このイベントの評価は「歴史に残り一大イベント」と評価する声もある反面、「総花的でまとまりがない」という評価もある[4]。
ジョイントコンサート自体は古くからあり珍しくはないが、当時既にビッグネームだったアーティストが一堂に会したという点が特筆される[6][10]。これは「バンド・エイド」や「USAフォー・アフリカ」の影響がある[6]。エンディングで歌われた「ALL TOGETHER NOW」は、主なシンガーが次々ソロパートを歌う「バンド・エイド」や「USAフォー・アフリカ」式で歌唱された。
名前の後ろに※印が付いている出演者は、当初出演者として告知されなかったシークレットゲスト。
ライブの模様は後日、全民間放送AM・FM・短波局で放送された。