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京都市立芸術大学 (きょうとしりつげいじゅつだいがく、英語 : Kyoto City University of Arts)は、日本 の公立大学 である。京都府 京都市 下京区 崇仁地区 に本部を置く。略称は京都芸大 [ 1] 、京芸 [ 2] 、KCUA 。
日本最古の芸術系大学であり、日本では初の公立の絵画専門学校を母体に設立された[ 注 1] [ 注 2] [ 注 3] [ 注 4] 。
概観
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(2023年5月 )
沿革
略歴
1880年 (明治 13年)に開学した京都府 の京都府画学校が起源[ 5] 。6月に太政大臣 三条実美 により「日本最初京都画学校」と命名され、7月に京都御苑 内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行われた。
背景には、東京奠都 によるパトロン の喪失、文明開化 による伝統文化 の冷遇などから、円山派 や四条派 といった京都画壇 の諸派が危機に陥ったことにある。美術 を立て直すために市民の間から美術家養成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高まり、その熱意の結果創立されたものである。これには同じく文明開化で低迷していた京都の主力産業である伝統工芸 の近代化を支援するため、密接な関係にある美術界を盛んにする目的もあった。
当時、京都の芸術界を取り巻く環境は厳しく、幕末 の元治 元年(1864年)、佐幕 諸藩と長州藩 が衝突した禁門の変 に端を発した戦火は市中を覆い、約2万7千軒の家屋が焼失した。政治的混乱で復興も進まないまま、江戸幕府 は消滅。明治新政府 の発足とともに首都の座は東京に移り、京都市域の人口は35万人から20万人あまりに激減したとされる。国の絵師たちも打撃を受け、京都は朝廷 や公家 など有力者の仕事を請け負う全国の絵師のほか、数多くの町絵師 を抱えていたが、人口減と経済低迷で絵の買い手がなくなった。染色 の図案や測量 図面を描いて日銭を稼ぐ絵師もいたともされている。画学校の設立には、京都だけでなく日本国 の芸術界の存亡がかかっていた。
学校設立に奔走したのは市井に生きた絵師たちである。明治11年(1878年)、府知事 に出された学校設立の建議書には、京都芸術界の主流である四条派 を率いた幸野楳嶺 のほか、鈴木派 の久保田米僊 らが名を連ねた。初代校長に就いた田能村直入 は南画 界の大御所だが、各地の有力者を回って資金を広く集めた。
流派 を超えた連携に、偶然の出会いが重なる。学校発足翌年、北垣国道 は府知事に就任すると、資金面などで学校を支えた。北垣は幕末にスパイと間違えられ処刑されそうになったが、森派 の絵師森寛斎 の取りなしで命を救われ、絵師たちと知己があったのではないかとされている。
芸術を支えるには経済力を背景にした都市の「力」が不可欠な為、その意味でも北垣の存在は大きかった。京都は事業を通じ、復興を成し遂げると産業界が質の高い工芸品を作れる優秀な人材を欲したことで学校の存在感は高まり、芸術界に逸材を送り込んでいった。
画学校では修業年限3年間のうちに文人画 や大和絵 、狩野派 など日本の美術の諸派を学ばせた。また、殖産興業 のために工芸品の意匠 ・デザインに関する教育を行なうことも目的の一つであり、その課程に西洋画 を導入したことは当時としては画期的であった。西洋画 は当初日本では、芸術文化の類というよりは建築などの図面を描く工業技術として、京都府画学校創立に先立つ1876年 (明治9年)、工部美術学校 などで導入されていたからである。工部美術学校 がアーネスト・フェノロサ らによって西洋美術学習・研究の発展を妨害され、後発の東京美術学校もフェノロサや岡倉天心 の意向によりながらく西洋画科が置かれなかったのとは対照的である。
過去には京都市の財政難で国立大学へと移管する話もあったが、京都市民の熱望の賜物である学校の窮状を救おうと、古くからの町衆 や旧家などから存続のための多数の寄付を受け、京都市立音楽短期大学 と統合した今も市立大学であり続けている。
芸術家・デザイナーの輩出
古くは京都画壇の中心地であったと言われ、また京都の陶磁器 、漆 工芸、染織 などの地場産業に多くの人材を供給して活発化させた。明治以来多くの日本画家、洋画家、版画 家、陶芸 家、染織家、デザイナー 、音楽家 、現代美術 作家を養成してきた。
嘗てより徹底した少人数教育を行っている。卒業生は現代美術家 の草間彌生 や女性初 の文化勲章受章者 である上村松園 、サグラダ・ファミリア 主任 彫刻家 の外尾悦郎 、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団 首席指揮者 の佐渡裕 、直木賞 受賞推理作家 黒川博行 、日本人女性初のアカデミー賞 (衣裳デザイン賞 )を受賞したワダ・エミ 、重要無形文化財 「木工芸」保持者の人間国宝 村山明 、重要無形文化財「友禅 」保持者の人間国宝森口邦彦 らなどといった国内外問わず第一線で活躍する数多のアーティスト [ 6] 、教育者、研究者を育成及び輩出しており[ 7] 、欧州の伝統的な芸術大学との交流も盛んである。教職員と卒業生と中には、文化勲章を授与された人物16名、日本芸術院 の会員24名、人間国宝に認定されたアーティスト10名がいる。
テクノロジー企業への就職者も多く、特に任天堂 やSONY への年間就職者数が芸術大学の中でも多い。ゲーム 会社への就職者はゲームキャラクターデザイナー だけでなく、任天堂が展開している主力サービス『ニンテンドーeショップ 』『Nintendo Switch Online 』などといったオンラインサービス 分野でのUI / UX 設計を手掛ける藤野洋右 [ 8] を輩出するなど分野は多岐にわたる。
年表
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAの入る堀川 御池 ギャラリー(京都市中京区)
京都市立芸術大学 情報 用途
事務所 構造形式
鉄筋コンクリート造 (一部、鉄骨鉄筋コンクリート造 )[ 4] 延床面積
中央棟:7,936m2 [ 4] アトリエ 棟:9,726m2 [ 4] 染織・漆工棟:2,067m2 [ 4] 陶磁器棟:1,225m2 [ 4] 彫刻棟:1,482m2 [ 4] 音楽棟:3,061m2 [ 4] 体育館:1,385m2 [ 4] 講堂:1,588m2 [ 4] 大会議室:349m2 [ 4] 新研究棟:4,605m2 [ 4] その他:1,819m2 [ 4] 総計:35,243[ 4] 階数
中央棟:地上4階・地下1階[ 4] アトリエ棟:地上4階[ 4] 染織・漆工棟:地上2階[ 4] 講堂:地上2階[ 4] 大会議室:地上3階・地下1階[ 4] 竣工
中央棟:1979年 (昭和 54年)[ 4] アトリエ棟:1979年 (昭和54年)[ 4] 染織・漆工棟:1979年 (昭和54年)[ 4] 陶磁器棟:1979年 (昭和54年)[ 4] 彫刻棟:1979年 (昭和54年)[ 4] 音楽棟:1979年 (昭和54年)[ 4] 体育館:1980年 (昭和55年)[ 4] 講堂:1981年 (昭和56年)[ 4] 大会議室:1994年 (平成 6年)[ 4] 新研究棟:2000年 (平成12年)[ 4] 所在地
京都市 西京区 大枝沓掛町13-6 座標
北緯34度58分27.4秒 東経135度39分49.5秒 / 北緯34.974278度 東経135.663750度 / 34.974278; 135.663750 (京都市立芸術大学 ) テンプレートを表示
1880年 (明治13年) - 京都府画学校 創立(京都御苑旧准后里御殿を仮校舎とする)。
1882年 (明治15年) - 暴風のため校舎破損、河原町 の織殿(おりどの)へ移転。
1885年 (明治18年) - 河原町の元勧業場跡へ移転。
1889年 (明治22年) - 京都府から京都市の経営に移り、京都市画学校と改称、京都御苑内博覧会東館へ移転。
1890年 (明治23年) - 東山 の華頂山 麓にある知恩院 通照院へ移転。
1891年 (明治24年) - 京都市美術学校 と改称。
1893年 (明治26年) - 京都御苑内東南隅の新校舎へ移転。
1894年 (明治27年) - 京都市美術工芸学校 と改称。
1901年 (明治34年) - 京都市立美術工芸学校 と改称。
1907年 (明治40年) - 上京区 吉田 川端通 荒神口の新校舎へ移転。
1909年 (明治42年) - 京都市立絵画専門学校 を新設・開校(校長は兼任、美術工芸学校の校舎の一部を転用、美術工芸学校と併設)。
1926年 (大正 15年) - ともに東山区今熊野 日吉町の新校舎(現在の智積院 宗務庁建物)へ移転。
京都市立美術工芸学校は後に京都市立美術高等学校となり、京都市立日吉ヶ丘高等学校 ほかに継承、日吉ヶ丘高等学校美術工芸科は1980年に独立し、京都市立銅駝美術工芸高等学校 となる)。
京都市立堀川高等学校音楽課程も共に聖護院へ移転、1980年に沓掛の京都芸大隣接地に移転、1997年に京都市立音楽高等学校 (現:京都市立京都堀川音楽高等学校 )となる。
基礎データ
所在地
西京沓掛キャンパス(京都府京都市西京区大枝沓掛町13-6)
教育および組織
組織
学部
大学院
修士(博士前期)課程
美術研究科
絵画専攻
日本画・油画・版画・構想設計(※2012年、造形構想から変更)
彫刻専攻
デザイン専攻
工芸専攻
芸術学専攻
保存修復専攻
音楽研究科
作曲・指揮専攻(作曲)
作曲・指揮専攻(指揮)
器楽専攻(ピアノ)
器楽専攻(弦楽)
器楽専攻(管・打楽)
声楽専攻
音楽学専攻
日本音楽研究専攻
博士後期課程
(以下は研究領域)
日本画
油画
版画
メディア・アート
彫刻
ビジュアルデザイン
環境デザイン
プロダクト・デザイン
陶磁器
漆工
染織
産業工芸・意匠
保存修復
芸術学
(以下は研究領域)
作曲・指揮研究領域
器楽研究領域
声楽研究領域
音楽学研究領域
附属機関
研究センター
日本伝統音楽研究センター
芸術資源研究センター
@KCUA
大学施設
資料館・ギャラリー
@KCUA
堀川御池ギャラリー内に2010年に開館した大学のサテライト・スペースである。大学の英語表記 「Kyoto City University of Arts」 に「@」をつけて「アクア」と読む。特別企画展のほか、大学の研究成果発表展、教員・在学生・卒業生による企画展など、年間約15本の展覧会が開催されている[ 11] 。
学生生活
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(2023年5月 )
大学関係者と組織
大学関係者一覧
施設
キャンパス
新キャンパスの模型
キャンパス移転
崇仁地区に建築中の京都市立芸術大学キャンパス(2022年8月)
1980年に、東山区今熊野の美術学部と左京区聖護院の音楽学部が、洛西ニュータウン 付近の西京区大枝沓掛町に統合移転した。しかし沓掛キャンパスは郊外で交通アクセスが悪く、他大学や学外との交流に支障をきたしているほか、建物の老朽化の問題、傾斜地にあるためバリアフリー 化が進まない問題などから都心への移転を模索する動きがあった[ 13] 。2013年3月には大学が市に対して、京都駅すぐ東側の崇仁小学校跡地(約1ヘクタール )を中心とした地域への移転と、合計4ヘクタールの用地確保を求める要望書を提出しており[ 14] [ 15] 、これを受けて2014年1月に京都市は、大学の崇仁地区への移転整備と、大学転出後の洛西地区の活性化への取り組みを明らかにした[ 16] 。2023年 秋に移転し開校する計画が公表されている[ 17] 。
建築費など約269億円は京都市が負担するが、備品などは大学側が購入する必要があり、卒業生らが2023年1月に作品をオークション にかけて収益を大学に寄付する計画である[ 3] 。
2023年10月1日、客員教授を務める皇族 の彬子女王 などおよそ600人が出席し、記念式典が行われた[ 18] 。
対外関係
地方自治体との協定
相互の教育の充実・発展に資することを目的とした包括協定[ 19] (2007年締結)
脚注
注釈
出典
Wiki関係他プロジェクトリンク
関連項目
公式サイト