久慈郡(くじぐん)は、茨城県(常陸国)の郡。
人口13,777人、面積325.76km²、人口密度42.3人/km²。(2025年3月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる。
久慈郡の郡衙跡の場所についてはいくつかの説がある。のちの水府村(後述、現在の常陸太田市の一部)付近が郡家であったとする説[1]があるが、最も有力な説は郡衙は久米郷にあった[2]として現在の常陸太田市大里町から同市薬谷町にかけて存在する長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき[3]、リンクは「遺跡ウォーカー」内、北緯36度32分16秒 東経140度28分43秒 / 北緯36.537861度 東経140.478611度 / 36.537861; 140.478611 (長者屋敷遺跡)[3])を郡衙跡とするものである。この遺跡には寺院(古代久慈郡の郡寺久(慈)寺の跡。#郡寺参照。)や集落が含まれており、駅家か久慈郡衙の跡であるとされている[4]。この遺跡の調査報告書は長者屋敷遺跡[5]からダウンロードできる。また後述するように久慈郡には郡と同じ名を持つ村である久慈村(現在の日立市久慈町付近)があったが、郡衙跡とはされていない。
久慈郡の郡寺は上記長者屋敷遺跡内にある久(慈)寺であると考えられている。寺名については、当寺の寺域を囲んでいたと思われる溝や住居跡から「久寺」と読める墨書土器が出土しており[6]、郡寺には郡名を冠する「郡名寺院」と呼ばれるものがあることから、「久寺」を「久慈寺」の略で郡名を称する寺院の名であると考えたものである。
常陸国風土記によれば、郡家の南近くに昔あった小さな丘の形がクジラに似ているのを見たヤマトタケルがこの地を久慈と名付けたことが久慈郡の郡名の由来であるという。前述のように郡衙跡とされている地域の一部の常陸太田市大里町から常陸太田市立郡戸小学校付近を眺めると望むことができる丘はクジラの形に似ている[7]ので、風土記記載の小さな丘というのはこの丘をさしている可能性がある。 また、アイヌ語の「クシュ」もしくは「クジ」を語源として湾曲した砂丘を指すとする説がある。同様に岩手県の久慈市や川崎市の久地も河川の蛇行域の砂地をアイヌ人がクジと呼んでいたことを語源と見る説もある。[8]
『先代旧事本紀』の「国造本紀」において第13代成務天皇の代に初めて任命されたとされている国造である久自国造の本拠地はのちの久慈郡であるとされている。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
*印は消滅。