中山 博道(なかやま はくどう / ひろみち、1872年3月19日〈明治5年[注釈 1]2月11日〉 - 1958年〈昭和33年〉12月14日)は、日本の武道家。流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で範士号を授与された人物である[2]。
旧加賀藩士(祐筆役)中山源之丞の八男として、現在の石川県金沢市に生まれる。明治維新の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で富山県富山市に移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出され、働きながら剣術、柔術を学ぶ。
18歳のとき東京府神田西小川町の有信館道場(神道無念流・根岸信五郎)に入門。23歳で順免許、27歳で免許、28歳で師範代を許され、根岸の養子となる。中山家に復したのち、本郷真砂町に道場を建て、神道無念流・有信館を継承する。
神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学ぶ。その後、大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与され、昭和初期の剣道界において高野佐三郎と並ぶ最高権威者となった。
太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の名誉職にあり、晩年の口述集が残された。「昭和の剣聖」、「最後の武芸者」と評される。
少年時に富山市で斎藤理則から山口流(山口一刀流)を学び目録を授かる。また、14歳のとき囲碁の段位を取得する。17歳で上京。その目的は囲碁であったとも剣術であったともいわれる。1890年(明治23年)4月、18歳で神道無念流・根岸信五郎の道場・有信館の内弟子となる。身長160cm、体重60kg足らずの貧弱な体格から、到底ものにはならないだろうと言われたが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでといわれる厳しい修行をして実力を付けた。1902年(明治35年)、免許皆伝を得て根岸の養子となり、神道無念流・有信館を継承した。
1912年(明治45年)、剣道形制定委員(全国で25名)の一人に選ばれ、師の根岸信五郎(主査委員)と共に大日本帝国剣道形制定に尽力する。昭和初期の剣道界で高野佐三郎(中西派一刀流)と並ぶ権威を持ち、複数回の昭和天覧試合でも模範演武など[注釈 2]をつとめている。
太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は形式的に剣道団体の名誉職に名を留める。1957年(昭和32年)、全日本剣道連盟から初の「剣道十段」授与を打診されたが、十段制度に反対し、受け取らなかった。
現代剣道の成立に強い影響を与えた指導者とされるが、博道自身はスポーツ的な現代剣道には批判的であった。晩年に全日本剣道選手権大会を見て、「選士連の竹刀捌きは、私から見て器用につきてはいるが、所詮あれは竹刀捌きで、忌憚なく申し述べれば、及第点をつけられる者は只の一人といない。よって竹刀選手権と改称されたがいいとさえ存じている。あんな攻防は日本刀ではとても思いもよらぬことであって、非常識も甚だしい。(中略)剣道が竹刀踊りの遊戯化したものに落ちないことを願う」と手厳しく批判している[3]。
また、「竹刀競技で少しも差し支えない、難しいことはいうな、と一部の人々は言うが、元来この二つ(注:竹刀稽古と形稽古)は昔時においては一本であって、この一本が武道といわれた。二つに分けたことがそもそもの誤りで、武道に新古はない。この区別は大変な誤りで、竹刀即ち剣道も古武道即ち各流の形も皆一体となるのが当然である。恐らく今日の若い修業者は、竹刀で稽古を修めていることと、形や居合等の他の各流の教えとは別個なものであると考えられるに相違ない。これは私等の重大な責任と深く御詫び申しあげて置く次第である」とも述べている[4]。
博道が居合を志したのは、一説に後援者・渋沢栄一の居合に触発されたからといわれる。また、博道を慶應義塾剣道師範に任じた福澤諭吉も居合の達人であった。明治時代末期、「高知県(旧土佐国)に神伝重信流という一世唯一伝授が掟の居合が伝わっていると板垣退助と言っていた」と聞いた博道は、土佐藩出身の政治家で、無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄の親族でもある板垣退助を訪ね、その口利きで、神伝重信流(神伝重信流下村派)の細川義昌に入門し、細川から免許を允可された。
博道は居合道界の傾向について、「居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い」と述べ[5]、居合修行者が陥りやすい自己満足を戒めている。
試し斬りも積極的に稽古したが、あくまで居合完成としての試し斬りを行い、単なる据え物斬りや曲芸斬りを批判している[6]。
第二次大戦中は陸海軍からの依頼で一日に500振り以上の軍刀の試し斬りを行った。自身は200振りくらい持っていたが、出征する門人たちに贈呈したために、戦後はほとんど手元に残らなかった。門人は戦地で功績を挙げた者も多かったが、その一方で、刀の平だったため敵を切れず殴りつける結果となった、であるとか、自分の刀で自分を斬ってしまった、といった失敗も多かった。これについて博道は、「剣道の修業者が刀を振って自分で自分の刀に切られ、刀を棒に代えて使用したのでは、全く暗然たらざるを得ない。竹刀で練習充分だから日本刀も同様だと考える多くの人に対する警告の実例」と嘆いている[7]。
神道夢想流杖術を内田良五郎(玄洋社初代社長平岡浩太郎の実兄、黒龍会創始者内田良平の父)から学んだ。杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったという。現代剣道、居合道と並ぶ現代杖道普及の端緒を開いた。
博道は、「故郷(富山市)においては剣道ではなく、柔術を9歳頃から17歳ぐらいまで修行した」と述べている[8]。師は高山藤吉という人物であったという[9]。その後柔術を人前で見せることはなかったようであるが、同じ根岸門下であった稲村幸次郎の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。
合気道創始者の植芝盛平と親交があり、弟子を植芝の道場皇武館に派遣して剣道を指導させたり、高弟の中倉清を植芝の婿養子にするなどした。
また、大学生時代に有信館の門人であった空手家の小西康裕(神道自然流空手創始者)によれば、当時、本土に伝わった唐手(空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したという。
日本の敗戦後、大日本武徳会は占領軍(GHQ)の指令により解散し、剣道の組織的活動は禁止された。博道は戦犯容疑をかけられ、横須賀拘置所に収監された。無罪釈放されたが、高齢でもあったため疲弊し、戦後の混乱で有信館道場も人手に渡ってしまった。戦後は形式的に武道団体の名誉職に就くにとどまった。
1950年(昭和25年)頃から入退院を繰り返し、脳軟化症と診断された。1958年(昭和33年)、死去。享年86。全日本剣道連盟会長木村篤太郎が葬儀委員長を務め、青山斎場において日本剣道葬が執行された。正力松太郎、笹森順造、小川金之助、持田盛二など名士が参列した。戒名は大雄院殿無双博道大居士。師・根岸信五郎と同じ東京都港区南麻布の天真寺に葬られた。
年を取れば体力も劣ってくるし、敏活な動作も鈍るのは当たり前ではあるが、剣道には竹刀という特別な介在物があることを忘れてはいけない。この竹刀にかけられた積年の労が効果を発揮し、若い力や、若い動や、若い術に十分対応し、年齢より来る衰えを防護してくれるのである。これは絶対その通りとはいえないが、大体順当に正しく修業した者は、年齢からくる衰えと八十歳までは完全に対抗できるものである、と体験で確信している。中山は老人だから手加減して、といわれたことは絶対無かった。八十歳をもって限界点とするならば、人間の年齢から看て生涯不変と申して良い。即ち、九分九厘まで若い者に敗れることはない。これは断定してもいい。ここに剣道の特色があるのだと公言できる。 — 『新装版 中山博道剣道口述集』152-153頁。
官庁、企業、大学に剣道師範として招聘され、多いときは1日5回以上稽古していた。
交流のあった人物は多い。Wikipedia内に記事が存在する人物を中心に記載する。(五十音順)
有信館には、後援者として政財界の人物も参加していた。門人を兼ねる者もいた。