服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日[1])は、日本の実業家、日本赤十字社常議員。服部時計店(現セイコーグループ)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して「世界のセイコー」の礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
略歴
1860年(万延元年)、尾張国名古屋出身の服部喜三郎の長男として[2]、江戸・京橋采女町(現在の東京都中央区)に生まれる。寺子屋で習字・算盤等を学び、11歳で近所の雑貨問屋に丁稚奉公にあがった。いずれは自分の店を持ちたいと考える金太郎であったが、同じく近所の老舗時計店に強い印象を受ける。「時計店は販売だけでなく、その後の修理でも利益を得ることができる」と考えた金太郎は、14歳の時に日本橋の時計店、2年後には上野の時計店に入り時計修繕の技術を学んだ。1877年(明治10年)、金太郎は采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業[3]。自宅で時計修繕をする傍ら、他の時計店で職人としての仕事も続け、時計店開業のための資金を貯めた[3]。
1881年(明治14年)、21歳の金太郎は自宅近くに「服部時計店」を開業し[3]、質流れ品や古道具屋の時計を安く買い取り、修繕して販売する手法で利益を得た。1883年(明治16年)には銀座の裏通りに店を移転。この頃から横浜の外国商館との取引きを始め、輸入時計の販売を開始した。当時の日本には期日を守って支払いを行うという商習慣があまり無く、一ヶ月や二ヶ月の遅れは珍しい事ではなかったが、金太郎は期日を厳守した商取引で外国商館からの信頼を得る。外国商館は安心して多額の商品を融通し、良い物、斬新な物があれば服部時計店に優先して売ってくれる事もあった。このように順調に事業を拡大した金太郎は、1887年(明治20年)、銀座四丁目の表通りに店を移転した[3]。
時計製造を考えた金太郎は、当時懐中時計の修繕・加工を依頼していた職人の吉川鶴彦を技師長に迎え、1892年(明治25年)、時計製造工場「精工舎」を設立した[3]。程なくして柱時計の生産に成功、1895年(明治28年)には懐中時計の生産に成功し、精工舎で製造した時計の販売を服部時計店で開始した。一方、1894年(明治27年)には銀座四丁目の角地を買収し、巨大な時計塔を備えた時計店を完成させた。銀座のシンボル、「服部の時計塔」の誕生である[3]。1913年(大正2年)、国産初の腕時計の製造に成功し、販売を開始[3]。1917年(大正6年)には店を会社組織に改め、株式会社服部時計店とした。清国への時計の輸出も開始し、大戦景気にも乗った服部時計店はアジアで欧米メーカーと覇を争うまでに成長し、金太郎は時計業界で確固たる地位を築いていった。
しかし、1923年(大正12年)、関東大震災により銀座の社屋、工場の大半を失う。一度は落胆した金太郎であったが、すぐさま精工舎の復興に着手。翌年3月には柱時計の、12月には腕時計の出荷を再開した。さらに、1925年(大正14年)には難しいとされていた腕時計の量産化にも成功した。
1927年(昭和2年)4月18日には貴族院議員に勅選され[4][5]、同和会に所属し死去するまで在任[1][6]。1932年(昭和7年)には新しい時計店本店、現在の時計塔が完成した。その2年後、1934年(昭和9年)病に倒れた金太郎は73歳で没した[7]。墓所は多磨霊園[8]。
この後も服部時計店は世界初のクオーツ腕時計(1969年)、世界初の6桁表示デジタル腕時計(1973年)、世界初のスプリングドライブ腕時計(1999年)等を世に送り出し、「世界の服部セイコー」として一大企業へと成長していく。
将棋を愛好しており、福沢諭吉、森有礼、芳川顕正らとともに名人小野五平の後援者であった[9]。
世間より一歩先に
「すべて商人は、世間より一歩先に進む必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先に進みすぎると、世間とあまり離れて予言者に近くなってしまう。商人が予言者になってしまってはいけない」とは、金太郎の言葉であり経営の理念ともいえるものである。
ある時、「自分は、他の人が仲間同志で商売をしているときに、外国商館から仕入れを始め、他人が商館取引を始めたときには、外国から直接輸入をしていた。他人が直輸入を始めたときには、こちらはもう自分の手で製造を始めていた。そうしてまた他人が製造を始めたときには、他より一歩進めた製品を出すことに努めていた」と振り返っている[要出典]。
服部時計店が国産初の腕時計を発売して以来100周年となる2013年、これを記念した腕時計として「服部金太郎特別限定モデル」が発売されることがセイコーウオッチ株式会社より発表された[10]。これは前年にセイコーが発売した世界初のGPSソーラー腕時計「アストロン」の特別モデルで、裏蓋の中央に1900年(明治33年)に金太郎が商標登録した「丸角Sマーク」を配し、その周囲に「時代の一歩先を行く」の英文が刻印されている。創業以来、金太郎の名が冠されたモデルはこれが初めてとなる。
服部報公会
1930年(昭和5年)、70歳の古希を迎えるに当たり、金太郎は私財300万円を投じて発明・研究・学術奨励を目的とする財団・服部報公会を設立した[11]。これは、「自分がこれまで我が国の時計産業の発達に貢献し得たのは、ひとえに国家・社会の恩恵の賜物である」との信念からである。後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹も、この会の援助を受けていた。
服部ハウス
1933年(昭和8年)、港区白金に洋館を建てる。設計者は高橋貞太郎。敷地面積は16,815㎡。この洋館が「服部ハウス」として広く知られるようになった契機は、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部の進駐に伴って接収されたことによる。1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。翻訳作業が行われた期間は、邸宅の周囲には秘密保持のために鉄条網が張り巡らされ、翻訳陣は邸宅内に缶詰め状態とされた[12][13]。
栄典
家族・親族
金太郎は2度結婚している[7]。自分が一人息子だったためか[7]、2人の妻との間に3男10女計13人の子供をもうけている[7]。
金太郎の長男・玄三は父の跡を継ぎ服部時計店の2代目社長となった[15]。玄三の妻は元宮内省大膳頭・上野季三郎の次女・英子[15]。従って第24代内閣総理大臣・加藤高明の次男で東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた加藤厚太郎[脚注 1][16]、佐々木高行の孫で元神宮大宮司の佐々木行忠[脚注 2]、團琢磨の長男で元九州朝日放送会長の團伊能は3名とも玄三の義弟にあたる[脚注 3]。
玄三・英子夫妻の長男・謙太郎は服部時計店の4代目社長を務め[17]、次男・禮次郎は服部時計店の5代目社長を務めた[17]。禮次郎が社長を務めていた時に服部時計店は服部セイコーと社名を変更した。
金太郎の次男・正次は服部時計店の3代目社長を務めた[18]。セイコーエプソン初代社長の服部一郎は正次の長男である[19]。
金太郎の娘婿には元日本銀行副総裁・清水賢一郎[20]、元東京市長・牛塚虎太郎[20]、元東京慈恵会医科大学教授・松山陸郎[20]、元東京急行電鉄社長・篠原三千郎[20]、元杉村商店[脚注 4]取締役・杉村米次郎[21]、元紀長伸銅所社長・河田源三[21]、元同興紡績監査役・中原繁之助[21]、元帝国蚕糸会会長・吉田清二[21]、元東洋製作所顧問・仁井田甲斐がいる[21]。
服部金太郎を題材にした作品
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房 1987年(昭和62年)4月10日第1刷発行 ISBN 4-651-70032-2
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 22 加藤友三郎・清浦奎吾・加藤高明』 小学館、2012年(平成24年)6月19日発行
関連項目
外部リンク