松山 棟庵(まつやま とうあん、1839年10月23日(天保10年9月17日) - 1919年(大正8年)12月12日)[1]は、幕末・明治の日本の医師。大学東校(現東京大学医学部)大教授。慶應義塾医学所校長。東京慈恵会医科大学創立者。初名は勤。棟庵は名、字は功、号は棲菝で尊生舎と称した。紀州藩出身。
人物
紀伊国那賀郡神田村(現・和歌山県紀の川市)で。医師松山庄太郎の四男として生まれた。兄は蘭方医新宮凉庭の養子の凉介。帯刀を許されていた藩士で、浜口梧陵と共に、福沢諭吉を6000石で紀州藩に招聘しようと企てたが拒否されたため、紀州和歌山藩の選抜留学生として江戸の慶應義塾に派遣される。紀州藩士の慶應義塾留学に重要な役割を果たしたといわれる山口良蔵が同門に居る。
蘭学を修めたのち慶應義塾へ入学、英学を修めた。1871年(明治4年)大学東校(東京大学医学部の前身)の助教に就任、のち大教授となった。日本国最初の英語医学書の翻訳出版など多くの書物を残す。棟庵は師の命によって、慶應義塾の規則書を手本にして、草稿を作り、福澤諭吉はこれに手を加えた。
1873年(明治6年)から1880年(明治13年)の間慶應義塾医学所の校長。その間1875年(明治8年)三田に医局を開いた。1886年(明治19年)東京医学会を興し、その後共立医院(慈恵医院の前身)を設立。1891年(明治24年)東京慈恵医大を設立した。
上記以外の棟庵の事績としては松山病院を創立したことや東京医学会(後の日本医師会)、成医会、大日本私立衛生会の設立に尽力したことが挙げられる。
家族・親族
7男6女、計13人の子を儲けた
松山棟庵の四女のとしは岩崎弥太郎の三男の康弥に嫁いだため[10]、松山家は三菱財閥の創業者一族岩崎家と姻戚関係で結ばれることになった。杉本甫の妻の和歌子(岩崎康弥・とし夫妻の三女)や勝田正之の妻の寿々子(康弥・とし夫妻の四女)は棟庵の孫娘で[10]、鎮西清高の妻の由利子や地球科学者の岩崎泰頴(ともに康弥・とし夫妻の孫、泰頴・由利子兄妹の父の岩崎精一郎は康弥の長男)、児童文学作家の勝田紫津子(勝田正之・寿々子夫妻の長女)は棟庵の曾孫にあたる[10]。勝田正之は勝田主計の甥で[10]、杉本甫は小川平吉の長男の一平の義弟である[11]。そのため松山家は岩崎家を通じて勝田家や杉本家と姻戚関係で繋がっている。
一方岩崎泰頴・鎮西由利子兄妹の母、すなわち棟庵の孫の妻の小枝子は酒井忠克伯爵の次女であるが、小枝子の妹の寿枝子が住友元夫に嫁いでいるため[12]、松山家は岩崎家・酒井家を通じて住友財閥の創業者一族住友家とも姻戚関係を持った。また住友元夫の姪が安西正夫の次男の直之に嫁ぎ、直之の兄すなわち正夫の長男の孝之が上皇后美智子の妹の恵美子(美智子・恵美子姉妹は正田英三郎の娘である)を娶ったため、松山家は岩崎家・酒井家・住友家・安西家・正田家を通じて皇室の係累となった。
なお棟庵の姪の小百合は官僚の木場貞長に嫁いでいる。小百合の父の新宮凉介(新宮凉庭の養子)は棟庵の長兄である。小百合の兄に新宮凉園。
系譜
主な訳書
- 『窒扶斯新論』
- 『黴毒小箒』
- 『初学人身窮理』
- 『傑氏万邦史略』
- 『地学初歩』
参考文献
脚注・出典
外部リンク