メリリャ[5][6][7](メリージャ[8][es]、Mřič[9]、アラビア語: مليلة;)、英語(アメリカ: [məˈliːjə] mə-LEE-yə、イギリス: [mɛˈ-] meh-[10][11])は地中海に面したスペインの自治都市で、アフリカ北西部沿岸のトレス・フォルカス岬(スペイン語版、英語版)(三叉の岬)東岸に位置しモロッコと国境を共有する。面積は12.3 km2。古称はルサディール(Rusaddir)[7]。
アフリカ大陸にあるメリリャは、住民が定住するスペインの海外都市2つの1つであり、もう1つは近くのセウタである[12]。1995年3月14日に市の自治権規約(英語版)が可決されるまでは、マラガ県に属していた。
この都市は欧州連合(EU)の特別地域に数えられる。同連合の他の地域とメリリャとの間の移動には特定の規則が適用され、具体的にはスペインのシェンゲン条約加盟協定に従う[13]。
2019年時点の人口は8万6487人[14]。主にイベリア系とリーフ系(英語版)で構成され[15]、セファルディム系ユダヤ人やシンディ系ヒンズー教徒も少数、居住する。公用語のスペイン語に加えて2言語使い分けが定着し、リフィアン・ベルベル語が最も広く話される[16]。
アフリカに現存するスペインの海外領土として、セウタ[12]と同様にモロッコが領有権を主張し[12][17]、カトリック教会は「モーリタニア・ティンギタナの旧教区」と呼ぶ[18]。
メリリャは地中海の西の端アルボラン海に面し、歴史的な海の玄関口、メリリャ港をかまえる。背景のグルグー山(スペイン語版)から流れるデ・オロ川(スペイン語版、英語版)の河口部にあたり、町の海抜は1 m。海抜およそ30 mのトレス・フォルカス岬(スペイン語版)の頂上に置いたメリリャ砦(英語版)を中心に、ほぼ半円形に発展した。
モロッコの集落ベニ・アンセル Beni Ansar(英語版)はこの町に南接し、最寄りの都市ナドル(英語版) とは、同じ湾を住み分けている。その港から南に下るとモロッコのブーアレグ潟湖が広がる[19]。
温暖な地中海性気候に恵まれ海に接することから、ステップ気候との境目にありながら、内陸部よりも夏はやや涼しく降雨量もそれほど少なくない。年間を通じて温度差があまり大きくない点は、モロッコの北部海岸部、スペイン本国の南部海岸地域に似る。1991年以降2020年までの観測によると、最低気温が摂氏零度を割り込んだことはなく、最高気温が同35度を超えたことは2.2日であった[20]。
面積は約12 km²。人口は8万6487人[14](2019年時点)で2017年時点のおよそ8万人[24]から増加した。1995年3月14日までマラガ県に属し、1995年以降、自治権を持つ。国会下院に1議席、上院に2議席を有する。
かつて中継貿易やアフリカ植民地支配の足掛かりとして隆盛したメリリャは、第二次世界大戦以降、北アフリカ諸国の独立に伴い地政学上の重要性が低下すると、急速に衰退した。中継貿易に従事してきたスペイン系住民の一部は、本国に引き揚げ、代わりにモロッコ系住民が周辺部から流入した。政情不安のアフリカ諸国からヨーロッパへの移住を目指す移民・難民が増え、居住者の半分以上はムスリムである[24]。
古代フェニキア人によって建設され、カルタゴとローマ帝国に相次いで占領された[7]。プトレマイオスと大プリニウスはルサディール(Rusaddir=高い岬)を「oppidum et portus」であると書き、ポンポニウス・メラ(英語版)は起源43年前後に「ルシカダ」という訛化した名称を記し、帝国の道路と宿駅をまとめた『Itinerarium Antonini(英語版)』(アントニヌス帝の諸属州道程表)にも載っている[12]。
ローマ帝国衰退後はウマイヤ朝、アッバース朝、イドリース朝、ファーティマ朝、ムワッヒド朝、マリーン朝、ワッタース朝に支配され[25]ムミラ(Mlila[12])と呼ばれた。
イベリア半島のレコンキスタは、1492年に最後のイスラム王朝であったナスル朝グラナダ王国が滅びて一段落した[26]。余勢をかったカスティーリャ=アラゴン連合王国は、地中海南岸のイスラム系港湾都市のいくつかを攻撃し、勢力下に収めた。ルサディール(メリリャの古称)は、1497年に占領された港湾都市の一つである[7]。
反攻態勢を整えたイスラム系のサアド朝は16世紀中に多くの領地を回復したが、港湾都市であるセウタとルサディール、モロッコ南部のイフニはスペイン領として後々まで残された。1954年に独立したモロッコ王国は直後にイフニを回復し、現在もメリリャとセウタの領有権を主張しているが、スペイン側は「固有の領土」と主張して要求に応じていない。
1936年7月18日、スペイン内乱が発生。スペイン人民戦線に対する反乱軍(英語版)の首班となったフランシスコ・フランコ将軍が、メリリャの街に革命本部を置き指揮を取った[27]。
2007年11月にスペイン国王夫妻がセウタとメリリャを訪問したことに対して、モロッコ王国は駐スペイン特命全権大使を召還したため、両国の関係に緊張を招くこととなった[28]。
メリリャ空港を有し、マドリードやスペイン本土南岸のマラガ、アルメリアとの間を空路で結ぶ。港にはマラガ、アルメリア、モトリル港行きのフェリーも就航している。スペイン行きの海路は片道6時間以上かかるため、住民は流通する食料品や生活物資など日用品の多くを隣接するモロッコに頼っている。民生を支える政策としてモロッコ側からの入国審査を簡素化し、市外から輸入した物資の関税を安く抑えている。
モロッコ側の住民や商工業者はこれらの措置を逆手に取り、海外(特にEU地域)製品を自国よりも廉価で買い付けている。多くは個人の買い物客や零細貿易業者であるが、人口8万人規模のメリリャの街を訪れるモロッコ人は1日平均約3万人に及ぶ。非公式ながらモスクもあり[24]、町ゆく人々や街並みはモロッコ国内とあまり変わらない。
経済的に困窮したサハラ以南アフリカの住民は、ヨーロッパ方面へ亡命する中継地にメリリャを選ぶことがある[29]。アルジェリア以東の北アフリカ・アラブ世界の混乱から逃れて来る人も多い。こうした過程でイスラム過激派に傾倒したり、スペインの言葉や文化に馴染めない反感からスペイン国旗を焼いたりする者もおり、警察すら立ち入りを避ける地区もある。メリリャ当局は不法移民を防ぐため、モロッコとの国境に高さ6メートルの金属フェンスを張り巡らせた[24]。
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