ティトゥス・フルウィウス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス (ラテン語 : Titus Fulvius Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius [ 1] [ 2] 、86年 9月19日 - 161年 3月7日 )は、第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝 の第4代皇帝。彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃大ファウスティナ を通じてネルウァ=アントニヌス朝 と外戚関係を持っていた[ 3] 。妻の甥であるマルクス・アウレリウス と娘の小ファウスティナ を結婚させた上でアウレリウスを後継者とし、娘と甥の間に生まれた孫コンモドゥス にまで3代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。
こうした点から一部の歴史学者は、王朝の支配権がトラヤヌス の王統から外戚であるアントニヌスの一族へと移動したと見なし、祖父アントニヌスから孫コンモドゥスまでの3代をアントニヌス朝 と別称している。
「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌス が元老院 から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来する[ 4] 。しかし『ローマ皇帝群像 』はハドリアヌス帝によって処刑されることになっていた人々を救ったためであると主張している[ 5] 。
生い立ち
出自
西暦86年 9月19日 、執政官 経験を持つ元老院 議員ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス とアリア・ファディラの一人息子としてラウィニウム に生まれる[ 3] [ 6] 。父の故郷は南ガリアの殖民市コローニア・ネマウサ の出身で、同地はガリア遠征 時にローマ人の退役兵が入植した歴史を持つ古い殖民市である[ 7] 。父は祖父と共に早くに亡くなってしまい、母方の祖父グナエウス・アリウス・アントニヌス に引き取られて養育され[ 3] 、祖父の親友は『博物誌』の著者である大プリニウス であった。また母は後に別の貴族の男性と再婚して二人の娘を儲け、異父妹を持つ事になった[ 8] 。フルウィウス家、アントニヌス家と二つの家督と財産を受け継いだ事はアントニヌスにとって大きな利点となった。
111年、宮殿や元老院に出入りする様になったアントニヌスは財務官 (クァエストル)に任命されて元老院議席を得た[ 9] 。続く117年には法務官に叙任され、上流貴族としての立場を着々と継承していった[ 9] 。この間となる110年から115年頃には私生活でも当時の王朝であるネルウァ=アントニヌス朝 の一員であった大ファウスティナ と結婚している。彼女の父は執政官マルクス・アンニウス・ウェルス であり[ 3] 、母ルピリア・ファウスティナはトラヤヌス帝の大姪にして、ハドリアヌス帝の皇妃ウィビア・サビナの従姉妹であった。
大ファウスティナ との結婚は政略ではなく自由恋愛であったと言われ、仲睦まじい夫婦であった。後に大ファウスティナが皇帝時代の141年に死ぬと非常に落胆し[ 10] 、元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭ったり[ 11] 、妻を描いた金貨や名を冠した孤児院を建設したりしたと伝えられる[ 1] 。
両者の間には4人の子供が生まれたが、長男と次男には先立たれた[ 12] 。
長男マルクス・アウレリウス・フルウィウス・アントニヌス(西暦138年没);ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る[ 13]
次男マルクス・ガレルウス・アウレルウス・アントニヌス(西暦138年没); ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る[ 13]
長女アウレリア・ファディラ(135年没); 執政官ルキウス・ラミア・シルウァヌスと結婚、子はなかったと見られる[ 14]
次女小ファウスティナ ; 両親の甥であるマルクス・アウレリウス と従兄弟婚 [ 7]
西暦120年、ハドリアヌス帝時代に執政官に叙任され[ 1] 、皇帝の側近としての立場を強めていく。アントニヌスはハドリアヌス帝よりイタリア本土における長官の一人に指名され[ 15] 、続いて134年にはアシア総督として活躍し名声を高めた[ 15] 。同性愛者で跡継ぎの居なかったハドリアヌス帝は寵愛していた重臣ルキウス・アエリウスを後継者に予定していたと言われている。だがアエリウスが謎の急死を遂げると予定を変更し[ 16] 、138年2月25日にアントニヌスとその子息を後継者に指名した。しかしアントニヌスも息子に先立たれると、甥であるマルクス・アウレリウス とアエリウスの息子ルキウス・ウェルス を後継者にする事を遺言される[ 1] 。
西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスは皇帝インペラトル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マキシムス (Imperator Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pontifex Maximus)として即位を宣言した。
治世
アントニヌス帝時代の帝国領域
フォロ・ロマーノ 内に位置する大ファウスティナを祭って建設されたファウスティナ神殿。自らの崩御後に「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改められた。
ピウスの称号
帝位継承から真っ先にアントニヌス帝が行ったのは先帝ハドリアヌスを歴代皇帝と同じく神に祭る事であった。この提案はハドリアヌス帝と対立していた元老院に反対されたが[ 17] 、アントニヌス帝は懸命に元老院を説得する事に努めて遂に元老院を説き伏せた。この行動は主君に対するピエタス (献身)であると賞賛され、元老院はハドリアヌス帝を神に祭るのと合わせて彼に「アントニヌス・ピウス(慈悲深きアントニヌス)」の称号を与えた[ 18] 。他に晩年のハドリアヌス帝を献身的に支えた事も理由に含められた[ 7] 。
そしてハドリアヌス帝の路線をできる限り継承する事を望み、残された先帝時代に予定された事業の完成を急いだ[ 17] 。
対外政策
一方、帝国軍とは一貫して距離を置く事を志向した事で知られている。アントニヌス帝の20年以上に亘る治世で大規模な軍事遠征が行われた記録は一切残っておらず、軍に対する命令や記録も僅かである。現代における古代ローマ史の研究誌『The Journal of Roman Studies』は「23年の治世においてアントニヌス帝は軍団に対して命令や指揮はおろか、根拠地の500マイル以内に近付いた経験すらなかった」と評している[ 19] 。同時にそれは彼の治世が前期帝政(プリンキパトゥス)の中で最も平穏を維持した証でもある[ 20] 。
戦闘が起きなかったという訳ではなくブリタニアやマウレタニアで小規模な動乱があったが、重大な事件とは誰も受け取っていなかった[ 20] 。ただしブリタニアについては139年に新しい属州総督クィントゥス・ロリウス・ウルビクス を指名する積極策を用いている[ 17] 。彼はスコットランド南部にまで軍を進出させて、クライド湾からフォース湾にかけてアントニヌスの長城 を建設した[ 21] 。だがこの城壁線は明確でない理由によって後に放棄された[ 22] 。アントニヌス帝の死から3年後の164年 の事である。他にダキア・インフェリオルでの動乱は兵士の増員を必要とさせ[ 22] 、また上ゲルマニア総督カイウス・ポプリウス・カルスによってリーメス・ゲルマニクス の拡張が行われた[ 23] 。
こうした動乱の最中でもアントニヌス帝がイタリア本土を離れた事は一度としてなく、歴代皇帝の中でも特異な治世であった[ 24] 。属州での問題は全てそれぞれの属州総督 に一任され、彼らは責務の見返りとしてより強い統治権を与えられた。アントニヌス帝は宮殿から総督達を統制する間接的な支配体制を作り上げ、皇帝の宮殿在住と広大化した帝国支配の両立を満たしたこの方法は後世において踏襲される事になる[ 25] 。
国内政策
アントニヌス帝は学問や芸術・文化の保護に熱心で多くの劇場や神殿を建設し、学者達の報酬を引き上げさせた[ 1] 。またアントニヌス帝はユダヤ教のラビ(司祭)で高名な神学者であったイェフーダー・ハン=ナーシー の友人であり、彼が生涯の目標とした経典の編纂を帝国皇帝として後援した[ 26] 。アントニヌス帝は宮殿にイェフーダを招いて彼と問答を行ったという。
アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり、23年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。だがその代わりに帝国の法体系(ローマ法 )や行政制度の改革に熱意を注いだ[ 27] 。彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した[ 27] 。
この一大事業はアントニヌス帝が選抜した5人の法律の専門家による諮問機関を伴って行われた。法律に関する論文を後世に残したフルウィウス・アブルニウス・ウァレンス(Fulvius Aburnius Valens)、甥である皇子マルクス・アウレリウスの法律教師で遺産管理人でもあったウォルシウス・マエキアヌス(Volusius Maecianus )、法律書の著名な執筆者として知られていたウルピウス・マルケルス(Ulpius Marcellus)、他に記録が散逸している2名の法学者がローマ法の改革に参加していた[ 27] 。改革の内容は帝政末期から東ローマ時代に多大な影響を与える同時代の法律教師ガイウス の教本『法律概要』(Institutes of Gaius)により知る事ができる[ 27] 。
法改革によって奴隷の市民権獲得に関する必要条件が緩和され、狭き門であった解放奴隷 への道が大きく開かれた[ 28] 。また衛兵によって拘束された人間をまず罪人である事を前提に扱う慣習を廃止し、容疑者と罪人の立場を明確に分離した[ 28] 。取調べにおける拷問の使用についても新たな制度を設け、14歳以下の市民権保持者に対する拷問は特例を除いて違法とした[ 28] 。
西暦148年、アントニヌス帝の治世における象徴的な出来事が、900年目となるローマ建国祭の記念行事であった[ 29] 。アントニヌス帝は盛大な記念式典と競技大会を開催し、ロムルス 王の時代から900年の繁栄が続いた事を祝った。皇帝主催の大会は大いに彼の名声を高めたが、資金捻出の為にデナリウス銀貨の銀含有量を89%から83.5%に切り下げねばならなくなった[ 22] [ 30] 。
崩御
西暦161年、アントニヌス帝はロリウム市に滞在している所で熱病を患い、2ヶ月間に亘る治療の甲斐なく3月7日に崩御した[ 31] 。その治世はアウグストゥス帝(40年)とティベリウス帝(23年)より2ヶ月短いのみという3番目の長期間であった[ 32] 。彼の遺骸は甥のアウレリウスらによって弔われ、遺灰はハドリアヌス廟に葬られた。同時にカンプス・マルティウス に偉業を讃えた神殿が建設され[ 1] 、皇妃であった大ファウスティナの神殿も「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改称された[ 33] 。
評価
4世紀末に成立したとされる『ローマ皇帝群像 』の「アントニヌス・ピウスの生涯」では、その末尾に「アントニヌスは、ヌマ王 の幸運と敬虔さ、そして平穏と宗教的儀礼(に対する尊敬)を常に堅持したために、まさしく彼(ヌマ)に比されうるのである」と記している[ 注釈 1] 。
家系図
創作作品
映画
関連項目
脚注
注釈
^ 『ローマ皇帝群像』(京都大学学術出版会、第一巻)p131。この一文は本村凌二 も『教養としての「ローマ史」の読み方』(2018年,PHP研究所)第8章「アントニヌス・ピウス-賢帝中の賢帝」で引用している。『ローマ皇帝群像』ではピウス伝の第二節(p106)でも「名士たちの意見では、ヌマ・ポンピリウス の美徳に比肩しうるとのことであった」と記載されている。エドワード・ギボン は『ローマ帝国衰亡史 』第三章(ちくま学芸文庫版第一巻,p154)で「ヌマの再来とまで呼ばれた」と記している
出典
^ a b c d e f Weigel, Antoninus Pius
^ In Classical Latin , Antoninus' name would be inscribed as TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS.
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^ Birley, pg. 55; Historia Augusta, Life of Hadrian 24.4
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^ Magie, David, Historia Augusta (1921), Life of Antoninus Pius, Note 7
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^ Birley, pg. 55; Canduci, pg. 39
^ J. J. Wilkes, The Journal of Roman Studies , Volume LXXV 1985, ISSN 0075-4358, p. 242.
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^ a b c Bowman, pg. 155
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^ Speidel, Michael P., Riding for Caesar: The Roman Emperors' Horse Guards , Harvard University Press, 1997, pg. 50; Canduci, pg. 40
^ See Victor, 15:3
^ A. Mischcon, Abodah Zara, p.10a Soncino, 1988. Mischcon cites various sources, "SJ Rappaport... is of opinion that our Antoninus is Antoninus Pius." Other opinions cited suggest "Antoninus" was Caracalla , Lucius Verus or Alexander Severus .
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^ Bowman, pg, 154
^ Tulane University "Roman Currency of the Principate"
^ Bowman, pg. 156
^ Bowman, pg. 156; Victor, 15:7
^ Bury, pg. 532
資料
主要資料
副次的資料
Weigel, Richard D., "Antoninus Pius (A.D. 138-161)", De Imperatoribus Romanis
Bowman, Alan K. The Cambridge Ancient History: The High Empire, A.D. 70-192 . Cambridge University Press, 2000
Birley, Anthony, Marcus Aurelius , Routledge, 2000
Canduci, Alexander (2010), Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors , Pier 9, ISBN 978-1741965988
Bury, J. B. A History of the Roman Empire from its Foundation to the Death of Marcus Aurelius (1893)
Huttl, W. Antoninus Pius vol. I & II, Prag 1933 & 1936.
帰属
この記事にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Antoninus Pius" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. This source lists:
Bossart-Mueller, Zur Geschichte des Kaisers A. (1868)
Bryant, The Reign of Antonine (Cambridge Historical Essays, 1895)
Lacour-Gayet, A. le Pieux et son Temps (1888)
Watson, P. B. Marcus Aurelius Antoninus (London, 1884), chap. ii.
参考文献