軍人皇帝(ぐんじんこうてい)は、ローマ帝国で3世紀の危機と呼ばれた時期に、主に配下の軍事力を背景に廃立された諸皇帝をいう。
235年から284年の間、軍人皇帝が乱立した時代を軍人皇帝時代(ぐんじんこうていじだい)と称する。
具体的には、アレクサンデル・セウェルス暗殺(セウェルス朝断絶)後に即位したマクシミヌス・トラクスから、ディオクレティアヌスに討たれたカリヌスまでの諸皇帝を指す。
元老院が容認した皇帝だけでも、前半の33年間(235年-268年)に14人が擁立された。
さらに、各地の実力者がローマ皇帝号を僭称することも多く、結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国の国力は弱体化した。
古代ローマにおいては共和政の時代より、国家の最高指導者がすなわち前線に立つ軍司令官であった。共和政の時代においては、2人の執政官がこの役目を担った。執政官が2人であることからひとりは軍司令官として前線に赴いても、もうひとりの執政官が内政を執ることができ、また2人の執政官が同時に軍司令官として前線に立たねばならない場合にも、代わって内政を担当するのは誰であるかの序列も決まっていた。1年間という執政官の短い任期も、国土の狭い時代には問題無く機能した。
しかしながら、古代ローマが地中海世界全域を支配する巨大な領域国家となって以降は、1年の任期の執政官による統治と軍事指揮というシステムでは機能しなくなった。
帝政に移行後も、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムはそのまま継承された。初代皇帝のアウグストゥスをはじめ、多くの皇帝は内乱を勝ち抜いた人物であり、軍事と政治の両方の手腕を持っていた事から問題視はされなかった。アウグストゥス自身は軍才に乏しかったが、腹心アグリッパらに任せることで補った。またクラウディウスも病弱で軍務経験は皆無であったが、実際に軍を指揮する将軍たちの任命について人事の才能を発揮し、ブリタンニア遠征を成し遂げ、皇帝自身に軍才は無くてもシステムとしては問題無く機能した。
しかしながらローマ帝国がたびたび外敵の侵攻にさらされる時代になると、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムには弊害が見られるようになった。しかし、終身の存在である皇帝は、おいそれと更迭ができる存在ではなく、軍司令官として無能さを露呈した皇帝を排除するには、叛乱・クーデター・暗殺という非合法な強硬手段に出る以外に選択肢が無くなってしまったのである。また軍司令官である以上、戦死・敵の捕虜になるという事態は、当然のこととして起こり得るものであり、その度に皇帝を選び直さなくてはならない事態が生じた。また選出手段が決まっていた(市民集会の選挙)執政官と違い、皇帝の場合は選出手段が定められておらず、これも混乱の原因となった。事実、軍人皇帝時代以前にも、ネロやコンモドゥスの死によってそれまでの皇帝の皇統が断絶したのを切っ掛けに、地方の属州総督[1]が帝位を争って内乱を起こした例が2回ある(ローマ内戦 (68年-70年) (四皇帝の年) と、ローマ内戦 (192年-197年) (五皇帝の年))。
先立つ2世紀後半の気候寒冷化による食糧生産性の低下や、それに伴う不満の鬱積とローマ末端組織の支配力喪失の進行へ対処する為にカラカラ帝が発したアントニヌス勅令により、中央の財政が悪化する。また、外敵の侵入に対応するため属州兵を現地徴募に切り替えた結果、属州への締め付けが効かなくなるという悪循環が止まらない時代であった。
英語ではBarracks Emperror(兵舎の皇帝)、ドイツ語でもSoldatenkaiser(兵隊皇帝)と呼ばれており、この名前の通り、彼らは以前の皇帝とは異なり、旧来の貴族層による擁立ではなく主にローマ軍団の軍事力を背景としたクーデターによることが挙げられる。軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクスはトラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力も主として兵士であった。また元老院や貴族層は力を失って国政を動かす影響力に乏しくなり、軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となった。よって、属州軍により推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官(僭称皇帝)が乱立した。前線で戦う兵士たちにとって軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは生活の上でも身の安全の上でも死活問題であり、また元老院を形成する貴族層はかつての経済力や動員力・人脈を失い[2]承認する以外に無かったのである。特に軍人皇帝のひとりであるガッリエヌスによって、軍務の経験者が元老院から分離された事が、この傾向に拍車をかけた[3]。
しかし、軍人皇帝たちの多くはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替のたびに国境防衛に空白を生み、防衛能力の弱体化を招いた。またガリア地域における民心の離反と支配力喪失によりゲルマン人の侵入を容易にし、結果としてアウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。皇帝の要件はローマに対する忠誠心を失った知識層や民衆の支持ではなく、相対的に高まった軍属・兵士の支持と、他の属州軍団に立ち勝る軍事力であり、これがなくなると剣によって得た権力を剣によって失うことになった。また、それぞれの属州において兵士がそれぞれ皇帝候補や僭称皇帝を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる軍閥内の争いも生じた。
僭称皇帝の中には、ローマに進軍して自らが正規の皇帝になることを試みた者もいた。
ガリアを基盤に自立して260年に皇帝号を僭称したポストゥムスは、その地において事実上の独立国家を造り上げた。これが「ガリア帝国」と通称されている。また、東方のパルミラにおいては267年に「女王」と称されたゼノビアが自らの息子ウァバッラトゥスを擁立して皇帝号を僭称させ、ここでも「パルミラ帝国」と通称される事実上の独立国家が成立した。これにより、ローマ世界は本体の帝国とガリア帝国とパルミラ王国に三分されたことになる。
284年、プラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位に就くと、ディオクレティアヌスと名を変え、帝国のシステムを改革する。彼はまた帝国を4分割するというテトラルキアの制度を作り上げた。
軍人皇帝時代は皇帝の背景には軍事力が欠かせない要素ではあったが、その後の皇帝には軍事色が薄くなっていく。
ドミナートゥス(専制君主政)へと帝政を転換させたディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世などは皇帝権力を強化し、自らも兵を率いたが、その後は軍務は例えばスティリコのようにマギステル・ミリトゥム(軍司令官)が行い、彼らが帝国の運営の担い手となってゆく。
そして西ローマ帝国では、皇帝はホノリウス帝のように権威色が帯びるものの実際の政治的主導権は一層薄い存在となっていき、最後には傭兵隊長のオドアケルによって西ローマ皇帝は廃されてしまうことになった。
一方、東ローマ帝国ではコンスタンティヌス1世以来の強い皇帝権力が維持・強化され、ユスティヌス1世のように軍出身の皇帝が即位したり、7世紀のヘラクレイオスや10世紀のバシレイオス2世などのように親征を行う皇帝もいた。
注:
世界史の謎 https://www.y-history.net/appendix/wh0103-088.html[1]
軍人皇帝時代の研究 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/150134/1/ybunk00194.pdf
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