ロンメル上級大将のドイツアフリカ軍団がニール・リッチー中将のイギリス第8軍(Eighth Army (United Kingdom))に致命的打撃を与える中、イギリス政府暗号学校(現在の政府通信本部の前身)は、4月中旬、ドイツが中東戦域総司令部に深く食い込んでいることを突き止め、間もなくフェラーズに疑いが向けられた。6月4日には、ドイツの暗号解読で得られたウルトラ情報(Ultra)から、「良いソース」がイギリス軍部隊を訪れてアメリカ軍の戦術と否定的比較をしていることが分かり、カイロのアメリカ使節団でブラック暗号を使用している誰かである最終的論拠となった。6月10日、イギリス情報部のトップはチャーチル首相に、ドイツがカイロにいるフェラーズの軍事使節団が使っている暗号を解読し、危ういと報告した。ヴィガラス作戦とハープーン作戦の失敗で、ワシントンは6月14日、カイロ駐在武官の暗号が危ういことを認め、チャーチル首相は激怒した[14][15]。
アメリカ陸軍省は6月19日、北アフリカ軍事使節団に代わってアメリカ中東陸軍(United States Army Forces in the Middle East)を設置。イギリス情報部からフェラーズ事件の情報を与えられていた司令官ラッセル・マクスウェル(Russell Maxwell)少将は、「好ましからざる人物」フェラーズの配置を終わらせることを求めるイギリス政府の要求を支持して、7月7日、参謀長代理(acting chief of staff)フェラーズ大佐を解任した。その際にマクスウェル司令官は、フェラーズをG2将校とすることは正当化できないと感じるとし、陸軍省に完全な報告をするため、フェラーズの帰国が最も望ましいとした。9日には情報部長ジョージ・ストロング(George Strong)少将がイギリス情報部との機密の相談の後、マーシャル参謀総長に、フェラーズを相談のため帰国させることが大いに望ましいと伝えた。フェラーズがワシントンに戻ると、ストロング部長は情報部の英帝国部門の一時的任務につけた。フェラーズの中東専門のG2将校としてのキャリアは終わった[20][21]。
マッカーサー大将の総司令部では1942年9月から、日系二世語学兵を主力とし、連合国軍3大情報機関の中で最大となる連合国翻訳通訳課(Allied Translator and Interpreter Section: 略称ATIS)が活動していた(他の2つはホノルルの太平洋戦域統合情報センター(Joint Intelligence Center, Pacific Ocean Areas)とニューデリーの東南アジア翻訳捕虜尋問センター(Southeast Asia Translator and Interrogation Center))。ATIS調整官のシドニー・マシュバー(Sidney Mashbir)大佐は日本専門のG2将校で、駐日武官勤務だけでなく、東京でのビジネスマン経験もあり、海軍のエリス・ザカライアスと並ぶ陸軍きっての日本専門家だった。二世語学兵には日本で学校教育を受けた「帰米」もいた。帰米は学校で軍事教練を受けているので、日本語の軍事用語に通じており、筆で書かれた草書体の文書も読めた。ATISでは捕獲した日本軍文書の翻訳・分析と捕虜尋問、そこから得た情報の配布を行った。捕獲文書には日本軍兵士の日記が大量にあり、ATISはその翻訳を通して日本軍部隊の状態や配置、作戦、兵站、士気、心理状態などを詳細に知ることができた。戦場での捕虜尋問で間近に迫った日本軍の空爆を避けることもあった。二世語学兵には残敵掃討の投降勧告で命を張る者もいた[33][34][35][36]。
フィリピンからオーストラリアへ脱出したマッカーサー最高司令官の南西太平洋戦域では、オーストラリア軍最高司令官(Commander in Chief, Australian Military Forces)トーマス・ブレイミー(Thomas Blamey)大将が連合国陸上部隊(Allied Land Forces)司令官となり、オーストラリア委任統治領東部ニューギニア戦までの同戦域の連合国軍主力はオーストラリア陸軍だった。マッカーサーは、チェスター・ニミッツ大将が最高司令官の太平洋戦域(Pacific Ocean Areas)で行われた、日本軍の拠点を正面から攻撃して全滅させる自軍にも犠牲の多い戦略ではなく、日本軍の手薄なところに飛行場を確保して退路を断ち、日本軍を戦闘で全滅させず餓死させる戦略を採り、南西太平洋戦域の連合国軍戦死傷者は多く見積もっても日本軍の十分の一にならないと推測されている[37]。二世語学兵1人は歩兵1個中隊と同じ価値を持つとも言われ、マッカーサー総司令部のG2部長としてATISを設立したチャールズ・ウィロビーは、二世語学兵が戦争を2年短縮したと評した[38]。戦後にマッカーサーは「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と語っているほどである[35]。1944年3月末の「海軍乙事件」で、連合艦隊参謀長福留繁中将が保持していた新Z号作戦計画書などの最高機密文書を翻訳・分析して、ニミッツの担当戦域でのマリアナ諸島攻略戦に貢献したのもATISである。マッカーサーのOSS嫌いは有名だが、個人的感情によるものではない。マッカーサーは、統合参謀本部で太平洋戦線を主に担当する合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将とは、対日戦略構想が全く違って対立しており(キングはフィリピン素通りを主張、マッカーサーはフィリピン奪還に固執。1944年7月にルーズベルト大統領の裁定でマッカーサー案採用)、統合参謀本部指揮下のOSSが南西太平洋戦域で活動することを認めなかった[39]。
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Dennis E. Showalter; Harold C. Deutsch (2012) [1997]. If the Allies Had Fallen: Sixty Alternate Scenarios of World War II. Skyhorse. ISBN978-1616085469
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