梅 謙次郎(、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1910年(明治43年)8月25日)は、日本の法学者、教育者。学位は、法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現・法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。富井政章、穂積陳重とともに民法を、田部芳、岡野敬次郎とともに商法を立案起草した。弟子に川名兼四郎[2]など。
経歴・人物
松江藩(現・島根県松江市)で藩医・梅薫の次男として生まれた。病弱ながらも意思強固で議論に強く、12歳にして藩主の前で日本外史を講じて褒章を受け日蓮の再来と称されるなど、幼少より非常な秀才ぶりを発揮した。
東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科[5]を首席卒業後、司法省法学校でフランス法を学び、入学当初から首席を占め、病気で卒業試験は未受験にもかかわらず、平常点だけで首席卒業。指導教官はジョルジュ・アペール。なお司法省法学校二期生の入学試験には当初不合格になっており、この時の次席合格原敬(後の首相)が陸羯南らとともに学校経営上の紛争に巻き込まれ中退し(賄征伐)、欠員が生じたことで転学への途が拓けている[8]。
文部省の国費留学生としてフランス留学を命じられ、飛び級でリヨン大学の博士(Doctorat)課程に進学。首席で博士号を取得。博士論文『和解論』は現地でも高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を受け公費で出版された。1891年には、ドイツ・ベルリンの法律雑誌にもその書評が掲載されている[9]。同論文はフランスでは法律百科事典に引用されており[10]、現在もフランス民法の解釈論として通用している[11]。ドイツのベルリンにも留学し、1890年(明治23年)8月に帰国すると、伊藤博文にブレーンとして重用された[12]。
学者としては帝国大学法科大学(現東大法学部)教授の職務に専念するため、私学には出講しないつもりであったが、レオン・デュリー門下[注 1]で薩埵正邦(法政大学創立者)とゆかりのある富井政章(薩埵の義理の兄)やリヨン留学時代に世話になった本野一郎(当時和仏法律学校講師)が横浜港の船内まで出向いて懇請したため、和仏法律学校の学監兼務を承諾した[13]。以後20年間に渡り、学監、校長、初代総理として法政大学の設立、発展に大きく貢献した。なお「総理」と呼ばれたのは梅のみで、梅以降は「学長」、これが2代続いた後からは「総長」となる[14]。東京専門学校(現早稲田大学)でも教鞭をとった[15]。
帰国前に勃発していた民法典論争においては、結論的には裁判実務の統一及び不平等条約改正の便宜を重視して旧民商法断行論に立つも[16]、法典そのものにはむしろ批判的で学者としての信念から詳細な学理的批判を加えており[17]、しばしば梅が旧民法そのものを賞賛した断行派の代表である[19]かのように喧伝されるが俗説に過ぎないとも指摘される[20]。あまりに批判的なことから、梅は「法典延期論者である[21]」と評されることさえあったことは本人が認めている。しかし、そのように学者として公平誠実な態度を採ったことは、断行派の敗北にもかかわらず新民法起草者に選ばれる一因になった(民法典論争#梅謙次郎の断行論)。
梅は民商法起草においても拙速主義を採り、民法典の編別にも穂積・富井とは異なる意見も持っていたが(現行法と異なり、親族編を第二編に置くべきとする)、自説にはさほど執着せず、内容の不備は後の改正に委ね、法典施行を何よりも急ぐべきとする立場を維持し、完全主義の富井とは対照的であった。穂積の『法窓夜話』によると、梅は鋭敏な頭脳を持ち、法文の起草をするのが非常に迅速で、起草委員会では富井政章、穂積陳重の批評を虚心に聞き容れ、自説を改めた。しかし一たび起草委員会としての案が決まると、法典調査会では勇健な弁舌で反駁、弁解に努め、原案の維持を図った。これに対し富井は法文を沈思熟考の上起草し、起草委員三名の議論では容易に自説を改めなかったが、法典調査会では反対論を受け容れる姿勢を示した。それぞれ一理あるとの理解を示しつつ、梅の外弁慶と富井の内弁慶ぶりが対照的であり、「梅博士は、本当の弁慶」であったと回顧されている[24]。
穂積、富井とともに、日本の民法典を起草した三人のうちの一人で、頭の回転の速い梅がいなければ、決して前後に矛盾の無い「今日ノ美法典」を見ることはなかったであろうとの評もあり、「日本民法典の父」といわれる[25]。もっとも、梅は拙速主義の立場から民法の構成にはあまりこだわっていなかったため、編別には穂積・富井の考えがより強い影響力を持っていたと推測されている。特に、三名の起草委員の中で指導的立場に立ったのは穂積であった。一方で法典調査会での発言回数[26]はトップを記録しており、梅は内容面よりもむしろ民法典の早期完成に寄与するところが大きかったようである[28]。また、梅は抜群の頭の回転による速やかな論理操作を得意とする反面、牽強付会の強引な論法も目立ち、富井と異なり前後に矛盾の無い統一的・体系的説明は不得意であったという。全体的に出来が良い民法典の中でも例外的に梅が原案起草を担当した抵当権は錯雑としてわかりづらい、特に滌除は理屈倒れで機能していないと批判されている[31]。担当箇所は法典調査会#民法起草体制参照。
それでもなお、伊藤博文(内閣総理大臣兼法典調査会総裁)は「穂積君」「富井君」と呼ぶ一方で、梅に対しては「梅先生」と呼び重用した[32]。「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」とも称され[33]、日本の法学者の中で唯一、単独で切手(文化人シリーズ)になっているなどその功績を高く評価されている[34][注 2]。
他にも商法、韓国の法典起草に加わったほか、行政面でも数多くの役職を兼任するなど、多方面で精力的に活動したが、50歳で急逝した。葬儀は、東京の護国寺で法政大学葬として執り行われた。
穂積、富井と異なり男爵になれなかったのは、早くに死去したため功績が充分世に認められなかったためであるという[35]。
学説
梅(中央)と富井政章(左)、穂積陳重(右)
アリストテレス、トマス・アクィナスを経た新自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場であった。梅が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも自然法が革命の原理たり得ることを否定し、一般意志によって表明された制定法こそ自然法であり、法律の解釈は、立法者の意思の探求とその演繹による体系化による法典の注釈にあるとしていたが、梅は、深淵な観念論を嫌い、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を速やかに示す実務型の学者であった。穂積陳重は、梅の自然法論について、「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評している。人為の成文法に根拠を求めるとするならば、それはもはや自然法ではないからである。梅自身も自然法という言葉を避け「理想法」といっているが、万古不変の法理をローマ法に求めたドイツのサヴィニーと本質的に大差無いとも評される。
しばしばフランス法系の学者の代表のように扱われる[39]ことがあるが、ドイツ留学者でもあり、民法典起草に当たってはフランス民法典ではなくドイツ民法草案を最も重要な範に採ったと明言しているとも指摘されており[40]、また「仏国法典は既に百年の星霜を経たるものであって、且其不完全の程度は確かに我法典より甚しいのであるから、之に適合する解釈法は必ずしも之を移して我民法典の解釈法とすることを得ない」とした上で、当時の日本の私法解釈方法につき、「大体に於てヴィントシャイド氏、デルンブルヒ氏等の意見と符節を合する」と述べている事に注意すべきであると指摘されている[41][42]。
一方で、日本民法がもっぱらドイツ民法の模写であるという世評には反対しており、フランス法系の民法にも好意的な立場を示し[43]、例としてスペイン民法典を挙げている[44]。
エピソード
司法省法学校時代、一週間で仏文教科書300ページを完全暗記し、答案にそのまま再現したため、かえって減点されてしまった[11]。また、民法典に関しても、全条文を完全に暗記していた[要出典]。
リヨン大学ではあまりに優秀であったため、ほかの日本人留学生までが「日本人には富井、梅のやうな法律の神様のやうな人間が居る」と現地学生に畏れられ、警戒されたというエピソードが伝えられている(飯塚茂太郎直話)[45]。
食べ物ではとにかく鰻が大好物で、法政大学の理事会の食事は鰻定食が慣例となり、梅が渡韓した時の統監府では鰻代の出費が非常に増えた[11]。
家族・親族
2歳年上の兄・梅錦之丞はドイツに留学後、日本人として初めて眼科の講義と診療を行い、東京大学医学部の初代眼科教授となった。森鷗外の『独逸日記』に出てくる「梅某」とは、この兄のことを指すと考えられている[9]。
妻・兼子が、小泉八雲の妻・セツの縁戚であることから、1903年に東大が八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌1904年9月に八雲が死去した際には葬儀委員長も務めている[11]。
略歴
1952年(昭和27年)文化人切手
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
著作
- 『梅謙次郎著作全集 CD版』 岡孝編、丸善、2003年
- 単著書
- 共著書
- 『日本 商法義解』 本野一郎合著、金蘭社、1890年10月-1893年3月(5冊)
- 『法典実施意見』 明法堂、1892年5月
- 編書
- 『法律辞書』 法典質疑会編纂、明法堂、1903年2月第一・第二 / 1906年10月第三
脚注
注釈
- ^ 富井政章、薩埵正邦、本野一郎、高木豊三は、ともに官立の京都仏学校でレオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下である。また、梅謙次郎も東京外国語学校時代にデュリーから教えを受けており、デュリーの記念碑が京都南禅寺に建立された1899年、梅と富井はその除幕式に出席するため、東京から駆けつけている(岡 「明治民法と梅謙次郎」)。
- ^ 穂積・富井も民法起草者として切手になっているが単独ではない。“穂積兄弟” たむたむホームページ、2015年11月21日閲覧
- ^ 委員長西園寺公望、委員は梅謙次郎・富井政章ら12名。
出典
参考文献
関連文献
- 山田三良 「嗚呼法学博士梅謙次郎先生」(『法学協会雑誌』第28巻第9号、1910年9月)
- 『法学志林』第13巻第8・9号(梅博士追悼記念論文集)、法政大学、1911年8月
- 「梅博士遺事録」1-33(『法律新聞』第836-916号、1913-1914年)
- 東川徳治著 『博士梅謙次郎』 法政大学ほか、1917年11月
- 東川徳治著 『博士梅謙次郎』 鳳出版、1985年3月
- 東川徳治著 『博士梅謙次郎』 大空社〈伝記叢書〉、1997年11月、ISBN 4756804853
- 『法学志林』第49巻第1号(梅謙次郎博士記念特集号)、1951年8月
- 岡孝、江戸恵子 「梅謙次郎著書及び論文目録:その書誌学的研究」(『法学志林』第82巻第3・4号、1985年3月、NAID 40003468302)
- 梅謙次郎博士顕彰記念誌編集委員会編 『わが民法の父 梅謙次郎博士 顕彰碑建立の記録』 1992年3月
- 岡孝 「梅謙次郎:和仏法律学校の支柱」(法政大学大学史資料委員会編 『法律学の夜明けと法政大学』 法政大学出版局、1993年3月、ISBN 4588635085)
- 「特集 民法100年と梅謙次郎」(『法律時報』第70巻第7号、日本評論社、1998年6月)
- 梅文書研究会編 『法政大学図書館所蔵梅謙次郎文書目録』 法政大学ボアソナード記念現代法研究所、2000年3月
- 李英美著 『韓国司法制度と梅謙次郎』 法政大学出版局、2005年11月、ISBN 4588635107
- 浅野豊美著 『帝国日本の植民地法制:法域統合と帝国秩序』 名古屋大学出版会、2008年2月、ISBN 9784815805852
- 法政大学ボアソナード・梅謙次郎没後100年企画・出版実行委員会編 『ボアソナード・梅謙次郎没後100周年記念冊子 BU100』 法政大学、2015年3月(上下2冊)
- 岡孝著 『梅謙次郎 日本民法の父』 法政大学出版局、2023年9月、ISBN 9784588635151
外部リンク
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