村瀬直養

村瀬直養
むらせ なおかい
生年月日 1890年10月12日
出生地 日本の旗 日本 栃木県宇都宮市
没年月日 (1968-08-08) 1968年8月8日(77歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業
前職 法制局長官
現職 弁護士
商工組合中央金庫理事長
日本電子計算機社長
所属政党 研究会
称号 従三位

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村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚政治家実業家商工次官貴族院議員、法制局長官綜合計画局長官。

経歴

栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。

東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。

その後、鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長、商工省商務局長などを歴任。1936年10月、特許局長官、同年12月、商工次官に就任。1939年10月、物価局次長となり同月に退官した。

1940年7月、第2次近衛内閣の法制局長官となり、次の第3次近衛内閣でも留任し1941年10月まで在任。退任後すぐに貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年5月18日まで在任した[1]1945年4月、鈴木貫太郎内閣で再び法制局長官となり、次の東久邇宮内閣でも留任し綜合計画局長官を兼務し1945年10月まで務めた。その他、高等捕獲審検所評定官、商工省顧問などを歴任。

1946年7月に弁護士登録を行い、同年から1950年10月まで公職追放となった。その後、商工組合中央金庫理事長日本電子計算機株式会社社長を歴任した。1968年8月8日没。享年77。墓所は川崎市緑ヶ丘霊園

栄典

  • 1968年8月8日 位一級追陞され 正三位 叙位[要出典] 
  • 1968年8月13日 従三位 村瀬直養 特旨を以て位一級追陞[要出典] 

伝記

  • 村瀬直養氏追悼録編纂委員会編『村瀬さんの想い出』村瀬直養氏追悼録刊行会、1970年。

脚注

  1. ^ 『官報』第5804号、昭和21年5月23日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。

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