山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士[1]。法華会創立者。
1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国[2]。
帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた[3]。文官高等試験常任委員[4]、法制局参事官[5]、第14代日本学士院院長、第2代学士会理事長、日仏会館理事長。1943年12月から1947年5月まで貴族院議員(帝国学士院会員議員)[6]。
1952年5月13日、恩賜賞及び日本学士院賞の受賞者が皇居に招かれ御陪食を賜わう機会があったが、本来同席する学士院長の山田は病気を理由に欠席した。翌14日、昭和天皇からスープを賜っている[7]。
作家の夏目漱石とは隣人同士だった時期があり、同じ東京帝国大学の出身ということもあって仲が良く[14]、漱石は電話を借りるため[15]山田の家に頻繁に出入りし、また妻のしげ子は漱石に文章の指導を受けていた[16][17]。1916年、漱石はしげ子の依頼で前述の辰野隆と久子の披露宴に出た際に食べたピーナッツが原因で胃潰瘍を再発しそのまま死亡した[18]。
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