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この項目では、日本で死刑が確定した歴代の死刑囚の一覧(1970年代)について説明しています。
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日本における死刑囚の一覧 (1970年代) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した死刑囚(死刑確定者)の一覧記事である。
1970年 - 1974年
1970年
1970年(昭和45年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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佐世保の質屋夫婦殺し (Y)[2] |
1970年1月8日[3] |
1966年12月23日[4] |
長崎県佐世保市で1966年12月23日20時ごろ[4]、質店の夫婦を殺害した[2]。 強盗殺人罪に問われ、1968年3月5日に長崎地裁佐世保支部(野田普一郎裁判長)で死刑判決を言い渡された[2]。控訴したが、1969年2月21日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。 1969年12月12日、最高裁第二小法廷(草鹿浅之介裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[4]。同判決に対する判決訂正申立も、1970年1月8日付の決定で棄却された[3]。 1975年10月3日に死刑執行(36歳没)。
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ボーナス毒殺事件 (T)[6][7] |
1970年1月23日[8] |
1964年12月15日[9] |
自動車修理工場の建設資金欲しさや[9]、家庭不和解決のため金銭を奪うことを計画し、1964年12月15日朝、福岡県筑後市で知り合いの市役所職員ら3人がボーナス資金を運搬していた乗用車に乗り込み、青酸カリ入りの栄養剤を言葉巧みに飲ませた[10]。1人は吐き出して助かったが、2人はそのまま死亡[10]。Tは犯行に失敗したと思い込み、少量の青酸カリを飲んで入院したため、現金奪取には失敗した[9]。Tは同年12月26日、退院したところを逮捕された[9]。 強盗致死、同未遂の罪に問われ、1966年12月28日に福岡地裁久留米支部(小出吉次裁判長)で死刑判決を受けた[6]。控訴したが、1968年5月10日に福岡高裁(塚本裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[11]。1969年12月23日、最高裁第三小法廷(田中二郎裁判長)で上告棄却の判決を宣告され、死刑が確定[10]。判決訂正申立も、1970年1月23日付の同小法廷決定で棄却された[8]。 死刑確定後の1975年10月3日朝、福岡拘置支所で左手首を剃刀で切り付け自殺(43歳没)[9]。死刑執行日の自殺は極めて稀である。それまでは死刑執行は前日に死刑囚に対し事前通告されていたが、この出来事がきっかけで当日告知に切り替わったとされている[12]。また当日は福岡2人連続殺傷事件のK死刑囚も死刑が執行されるはずであったが、Tの自殺のため延期され、Kは2日後の1975年10月5日に死刑を執行された。
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川越一家3人殺傷事件 (M) |
1970年2月19日 |
1965年8月24日[13] |
交際を求めていた女性の家族に反対されたことに逆上し、1965年8月24日夜、埼玉県川越市大袋新田の女性の兄(当時36歳)宅に押しかけ、女性の兄とその妻(当時33歳)の夫婦を殺害、女性の兄の弟にも重傷を負わせた[13]。 殺人、同未遂罪に問われ、第一審の浦和地裁川越支部、控訴審の東京高裁でいずれも死刑判決を言い渡された[13]。量刑不当を理由に最高裁へ上告していたが、最高裁第一小法廷(入江俊郎裁判長)で1970年2月19日、上告棄却の判決を言い渡された[13]。同年3月12日付で、同小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[14]。死刑執行日は不明。
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浜松義妹殺害事件 (I) |
1970年2月20日 |
1968年1月10日 |
静岡県浜松市で1968年1月、中学3年生の義妹に乱暴した上で殺害して床下に隠した[15]。 婦女暴行、殺人、死体遺棄罪に問われ[15]、1968年3月の初公判以来、犯行時は心神耗弱状態であり、婦女暴行と殺人は無罪であると主張していたが[16]、同年11月15日に静岡地裁浜松支部(永淵裁判長)で死刑判決を言い渡された[15]。同地裁支部は起訴事実を全面的に認定した上で、判決理由では精神鑑定の結果から心神耗弱状態とは認められないと指摘、また身勝手で残忍な犯行態様、小学校の頃から盗み癖があり、中学卒業後に4回懲役刑を受け、少年院や刑務所で10年近く過ごしていながら反省の兆しが認められず、再犯の可能性が高いと述べた[16]。 1970年3月6日付で、最高裁第二小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[17]。 死刑執行日は不明。
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町田署警察官殺害事件 (O) |
1970年3月26日 |
1967年10月5日[18] |
別れた愛人を拳銃で脅して復縁を求め、応じなければ無理心中しようと考え、それに使う拳銃を得るため[19]、1967年10月5日21時40分ごろ[20]、東京都町田市木曽町の警視庁町田警察署木曽派出所で勤務中の男性巡査(当時53歳)[注 1]を襲い、小刀で胸や腹を刺して殺害、拳銃を強奪した[19]。 強盗殺人罪に問われ、1968年8月9日に東京地裁八王子支部(樋口和博裁判長)で死刑判決を言い渡された[22]。控訴したが、1969年6月11日に東京高裁(飯田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[23]。上告したが、1970年3月26日に最高裁第一小法廷(長部謹吾裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[19]。 死刑執行日は不明。
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福岡3人殺傷事件 (K) |
1970年3月26日 |
1966年7月20日[24] 1967年9月27日[24] |
1965年春に熊本刑務所を出所したが[25]、1966年7月と1967年9月の2回にわたり、福岡県で古物商ら3人を殺傷した[21]。1966年4月ごろ、刑務所内で知り合った福岡県豊前市八屋町の古物商男性(事件当時35歳)から左官業として働く誘いを受けたが、実際に回ってきた仕事は左官業ではなく古物商の手伝いだった[25]。これに不満を持ち、同年7月20日6時ごろ、男性を風呂場から持ち出した薪割り斧で殴り殺害、同月22日には死体を床下に埋めた[25]。犯行後に男性が行方不明になったため、Kは警察の調べを受け、同年8月初めには関西方面へ逃走した[25]。また1967年9月27日6時ごろ、福岡県久留米市南町の花園住宅で、たばこ店経営者男性(当時68歳)宅に侵入し、室内を物色していたところ男性と妻(当時70歳)に見つかったため、近くの工事現場から持ってきた鉄棒で2人を滅多打ちにして男性を死亡させ、妻にも顔などに重傷を負わせた[24]。 殺人、死体遺棄、窃盗、強盗致死、同致傷の罪に問われ、死刑を求刑されたが、1968年9月12日に福岡地裁久留米支部(白石破竹郎裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[24]。同地裁支部は犯行動機が妻の出産費用に困ったことなどであり、情状酌量の余地があることや、久留米市の犯行は偶発的な面があったことを指摘し、死刑を回避した[24]。 1969年4月30日、福岡高裁(塚本裁判長)で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[25]。1970年3月26日に最高裁第一小法廷(松田二郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[27]。 ボーナス毒殺事件の死刑確定者Tと同じ1975年10月3日に死刑執行予定であったが、当日Tが自殺したため延期。2日後の1975年10月5日に死刑執行(37歳没)。
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三原食堂女主人強盗殺害事件 (H) |
1970年5月12日 |
1963年1月20日 |
殺人前科に余罪多数。1965年に留置場から脱獄しその際窃盗や傷害の余罪を起こし別件で懲役15年が確定。 強盗殺人、強盗致傷、窃盗、強盗強姦未遂、脅迫の罪に問われ、1970年3月29日に広島地裁尾道支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、同年5月12日付でこれを取り下げたため、死刑が確定した。 1975年に死刑執行(37歳もしくは38歳没)。
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弘前宝石商殺し事件 (N) |
1970年4月16日 |
1967年8月10日[20] |
Nは男Sとともに競輪で借金を抱えたため、Sおよび男Yと共謀し、脱税を盾に被害者の宝石商男性(当時58歳、兵庫県芦屋市在住)から宝石類を奪おうと計画した[28]。1967年8月10日、Yが被害者を弘前市富田のN宅に案内、150万円程度の宝石を買うように装ったが、5万円程度の宝石が欲しいと口を滑らせたことから口論になり、Nが被害者に暴行を加えた[28]。このため脅しをかけることに失敗したと考えたSが隠れていた便所から飛び出し、2階に駆け上って座布団で被害者の顔を押さえつけたところ、Nは「殺してでも宝石を奪おう」と考え、細紐を被害者の首に巻きつけ、Sと2人で絞殺した[28]。 Nは強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、1968年8月9日に青森地裁弘前支部(畠沢裁判長)で死刑判決を言い渡された[20]。同様に強盗殺人、死体遺棄の罪に問われたNは無期懲役(求刑:死刑)を、恐喝の罪に問われたYは懲役7年(求刑:懲役8年)をそれぞれ言い渡された[20]。同地裁支部はSについて、主犯がNであることから罪一等を減じた一方、Yは客として多少被害者から恩を受けた過去があるにも拘らず犯行に加担したことを重視し、恐喝罪としては特に重い懲役7年の刑を言い渡した[28]。 Nは控訴したが、1969年7月24日に仙台高裁秋田支部で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1970年4月16日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した。共犯は無期懲役が確定。 死刑執行日は不明。
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営林署作業員殺し事件 (N)[29] |
1970年6月8日 |
1968年10月19日[29] |
1968年10月19日、知人である丸瀬布営林署員の男性(当時27歳:粒別郡丸瀬布町)を自分の車に乗せ、男性の知人女性に会うため粒別郡佐呂間町へ行ったが、途中で予定を変更し、同郡上湧別町の山中で2人でヤマブドウなどを採取することにした[29]。山中に入ったところ、出発前に男性から預かっていたハンカチ包の中に郵便貯金、印鑑などが入っていることを知り、これらを奪おうと考え、持っていた棒で男性の頭などを殴って殺し、死体を山中に埋めた上で、上湧別町や旭川市の郵便局で、奪った郵便貯金通帳5冊(額面368000円)から犯行2日後までに全額を引き出した[29]。この事件以前に強盗殺人事件を起こして無期懲役刑に処された前科があり、仮出所から2年後の犯行であった[29]。 強盗殺人、死体遺棄、暴行、有印私文書偽造、同行使、詐欺の罪に問われ、1970年3月20日に釧路地裁網走支部(伊藤豊治裁判長)で死刑判決を言い渡された[29]。控訴したが、同年6月8日付で取り下げたため、死刑が確定した。 死刑執行日は不明。
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質屋老夫婦殺し (I) |
1970年6月11日 |
1968年7月23日[30] |
かつて宮城刑務所で服役していたが、刑務所仲間の男から多額の現金を持っている人物として、秋田県南秋田郡五城目町の質屋兼金融業男性(当時65歳)宅を教えられ、1968年7月23日21時20分ごろ、同宅の庭に侵入[30]。土間に置いてあったマサカリを持って寝室に侵入し、男性と妻(当時59歳)の夫婦をマサカリで殴り殺した後、室内を物色して現金約26000円と時計46個、指輪19個、ネックレス1本、腕輪2個を奪った[30]。 強盗殺人罪に問われ、1969年1月17日、秋田地裁(新田圭一裁判長)で死刑判決を言い渡された[30]。秋田地裁における死刑判決は戦後4件目だった[30]。 同判決を不服として控訴したが、1969年10月9日に仙台高裁秋田支部で控訴棄却の判決を言い渡された。 1970年6月11日、最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した。死刑執行日は不明。
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女性美容師殺害事件 (S) |
1970年8月20日 |
1967年1月26日[31] |
事件当時19歳の少年死刑囚[32]。東京都北多摩郡大和町在住[31]。 1966年ごろから東京都中野区の女性美容師(事件当時28歳)を結婚すると言って騙し、彼女が美容院の開店資金として7年間貯金していた20万円や、借金させた金を巻き上げ、自身の内妻と共に始めたおにぎり屋へつぎ込んだ[31]。1967年1月26日夜、結婚を迫ってきた女性を[32]自身の母親に会わせると言い[33]、栃木県矢板市まで乗用車で連れて行って絞殺し、現金13000円等が入ったハンドバッグなどを奪った上で、同月27日、死体を東京都小金井市の玉川上水に遺棄した[31]。1968年に一時脱走の前科あり。 強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、死刑を求刑されたが、1968年2月7日に東京地裁八王子支部(樋口裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[31]。検察官とSの双方が控訴していたところ[32]、1969年5月13日、東京高裁刑事第8部(栗田正裁判長)で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[33]。同高裁はSが信じ切っていた女性を利用し尽くし、必要がなくなったら計画的に殺害したという行為の非人間性から、Sが犯行時19歳だったことを考慮しても極刑が相当であると述べた[32]。またSは弟(1969年5月時点で17歳)から密かに金ノコを受け取り、第一審判決後の1968年4月8日、当時収監されていた八王子医療刑務所八王子拘置所の鉄格子を切断して丸1日逃走し、加重逃走罪で懲役2年の実刑判決を言い渡されており、同判決についても控訴していたが、同日に控訴棄却の判決を言い渡されている[32]。 1970年9月22日、最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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日暮里用務員夫婦殺害事件 (T) |
1970年9月22日 |
1966年8月10日[34] |
宮崎県生まれ[34]。1966年8月10日、かつての勤め先である東京都荒川区東日暮里五丁目の「隅田川燃料林産会社」に侵入し、住み込み使用人の男性(当時74歳)と妻(同72歳)を殺害、現金通帳(額面70900円余り)などを奪った[34]。 窃盗、住居侵入、殺人、強盗殺人、私文書偽造、同行使、詐欺の罪に問われ、東京地裁刑事第6部で開かれた第一審の公判では死刑を求刑されたが、1967年12月26日、同刑事部(大矢根裁判長)は犯行が計画的でないこと、事件後は深く反省していることを理由に、無期懲役の判決を言い渡した[34]。1969年1月29日、東京高裁で原判決を破棄され、死刑判決を言い渡された。 1970年9月22日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した。 死刑執行日は不明。
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マルヨ無線事件 (O) |
1970年12月12日[35] |
1966年12月5日 |
1946年(昭和21年)9月19日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在78歳)。 1968年12月24日に福岡地裁第2刑事部で死刑判決[事件番号:昭和42年(わ)第25号]。1970年3月20日に福岡高裁第3刑事部で控訴棄却判決[事件番号:昭和44年(う)第64号]を、同年11月12日に最高裁第一小法廷(入江俊郎裁判長)[42]で上告棄却判決を受け、判決訂正申立も同年12月10日付の決定で棄却されたため[43]、同月12日に死刑が確定した[35]。 被害者の死因の1つとされる放火を否認して再審請求中。死刑確定後の収監年数(54年1か月と1日 )は、帝銀事件の平沢貞通[注 2](32年)を上回る世界記録。
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栃木連続少女殺害事件 (U) |
1970年12月15日 |
1962年12月10日[45][46] 1963年4月14日[45] |
東武バスの運転手として勤務していた1955年4月、同僚であったバス車掌の少女(当時17歳)[注 3]から結婚を迫られたことに腹を立てて殺害する事件を起こし、懲役8年の刑に処されたが、1959年に仮釈放された[47]。仮釈放中だった1962年6月7日、男1人と共謀して栃木県矢板市矢板で材木40石(30万円相当)を積んで停まっていたトラック1台(150万円相当)を盗んだ[48]。同年12月10日23時30分ごろ[48]、矢板市矢板の飲食店に侵入し、同店の経営者の孫である女児A(当時8歳)[47]にいたずらした上で[46]、タオルで絞殺し、死体を全裸にした上で近くの笹藪に捨てた[48]。この時、UはAをこの家に住む女子高生と思い込んで乱暴したが、寝ていたのがAだったのでタオルで絞殺したという旨を述べている[47]。また1963年4月14日夜[48][45][47]、自身の妻の連れ子である少女B(当時14歳)を自宅からトラックの助手席に乗せ[47]、塩谷郡塩谷町船生にいるBの祖父宅まで送り届けようとする途中[48]、栃木県那須郡那須町の県道[46](那須御用邸入口)に停めた車内でBを乱暴し、タオルで絞殺、死体を裸にして塩谷町肘内の肥溜めに捨てた[48]。同月19日から妻と逃走中、群馬県利根郡水上町湯檜曽(現:みなかみ町湯檜曽)の旅館に2泊した際に宿泊代を踏み倒し、同月22日には同郡新治村永井の男性から「金を落とした」と偽って現金1000円を詐取した[48]。 事件後、まずB事件がUの犯行と判明、Uは続いてA事件も手口が似ていると睨んだ栃木県警からの追及の末、犯行を自供した[47]。 1963年7月に宇都宮地裁(佐藤恒雄裁判長)で初公判が開かれて以来、21回の審理が行われ、証人13人が尋問され、現場検証も2回にわたって行われ、公判調書は13冊に上った[49]。またこの間、担当検事は2回にわたって交代した[49]。公判中には林信人による精神鑑定が行われたが、林はUを異常性格および精神病質者と診断したものの、犯行時の精神状態は正常だったと結論づけた[48]。1965年9月29日、宇都宮地裁(沼尻芳孝裁判長)はUに対し、殺人、少女暴行致死、死体遺棄罪については求刑通り死刑、別件の自動車窃盗事件については懲役1年6月の判決を言い渡した[49]。宇都宮地裁における死刑判決は1963年8月に言い渡された日本閣殺人事件の小林カウ以来、2年6か月ぶりだった[49]。同地裁はUの弁護人の「心神耗弱」主張を退けた一方、A事件における警察での自供調書には任意性はないと認定したが、検察官への自供調書や自供の録音から、同事件もUの犯行であると認定した[48]。 Uは控訴し、控訴審では事実誤認および量刑不当を主張したが、1967年12月26日に東京高裁刑事第4部(久永正勝裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[45]。Uは上告したが、1970年12月15日に最高裁第三小法廷(下村三郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[46]。 死刑執行日は不明。
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1971年
1971年(昭和46年)に死刑判決が確定した死刑確定者は6人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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笹山団地主婦殺し (W) |
1971年3月23日[50] |
1967年6月9日[51] |
1967年6月9日11時ごろ、神奈川県横浜市港北区上菅田町の県営笹山団地の一室(自身の同僚である工員男性Aの居室)を訪れ、応対したAの妻B(当時31歳)に対し、高利貸しに借金の返済を迫られて困っているので5万円を貸してほしいと申し出たが、断られたため逆上、Bを乱暴した上で腰紐などで絞殺、現金15300円入りの財布を奪った[51]。事件当時は競輪で148万円の借金を抱えており、犯行直後にも競輪場で遊んでいた[51]。被害者は生前、足が不自由だった[52]。 強姦、強盗殺人の罪に問われ、検察官からは死刑を求刑されたが、1968年3月13日、横浜地裁(大中俊夫裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[51]。同地裁は犯行に至った経緯や犯行態様などに同情の余地は皆無であると指摘したが、犯行には計画性がないこと、Wが当時は深く反省していたことなどを挙げ、死刑を回避した[51]。1969年2月25日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された。1971年2月23日、最高裁第三小法廷(松本正雄裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[52]。 同年3月23日、最高裁第三小法廷で上告審判決に対する判決訂正申立を棄却する決定を受けた[50]。死刑執行日は不明。
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静岡同僚妻殺害放火事件 (M) |
1971年3月30日[54] |
1967年4月29日 |
強盗殺人、強盗強姦、現住建造物等放火、強盗殺人未遂の罪に問われ、1967年11月24日、静岡地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1969年5月28日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。 1971年3月9日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡された。同月30日、最高裁第三小法廷で上告審判決に対する判決訂正申立を棄却する決定を受けた[54]。死刑執行日は不明。
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横須賀線電車爆破事件(純多摩良樹) |
1971年4月22日 |
1968年6月16日 |
本名はW[55]。獄中から「純多摩良樹」の筆名で短歌を寄稿。 1969年6月16日15時28分ごろ、国鉄横須賀線の横須賀発東京行き上り電車(10両編成)の5号車網棚[56]に時限装置付き爆薬を仕掛けて爆発させ、乗客1人を死亡させ、14人を負傷させた[55]。事件から5か月後、爆破装置に用いられていたモナカの箱や新聞紙が手掛かりとなって神奈川県警特捜本部に逮捕された[56]。 船車覆没致死、電汽車転覆、殺人[55]、殺人未遂[56]、傷害、爆発物取締規則違反[57]と6の罪で起訴され、1969年3月20日、横浜地裁第1刑事部[55](野瀬高生裁判長[58])で死刑判決を言い渡された[55][59]。日本ではこの事件以前に運行中の電車・汽車を爆破させた事件の判例がなく、法解釈の点で注目される中で言い渡された判決だった[58]。同地裁は船車覆没致死ではなく電車破壊致死罪を適用した上で、Wは犯行前に3回の爆破実験を行ってその威力を確認した上で、実験の際に用いた量の2倍の火薬を使って犯行におよんでいたことから、電車内で爆破すれば近くの乗客を殺傷しうると認識しており、未必の殺意があったと認定した上で、このような犯罪が有する「独自のスリルと猟奇性」は模倣性が高く、厳罰に処す必要があると述べた[58]。 Wは控訴したが、1970年8月11日に東京高裁刑事第2部(樋口勝裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[57][60]。上告したが、1971年4月22日最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[56][61]。 1975年12月5日、宮城刑務所で死刑執行(32歳没)。純多摩の希望により遺骨は支援者の牧師が預かったが、1995年、遺族により遺骨が引き取られ、短歌新聞社より歌集『死に至る罪―純多摩良樹歌集』 が刊行された。
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新潟デザイナー誘拐殺人事件 (Y) |
1971年6月1日[62] |
1965年1月13日 |
犯行手口が映画『天国と地獄』に似ているとして注目された[62]。 1966年2月28日に新潟地裁(石橋浩二裁判長)で死刑判決を受け[63]、1968年12月19日に東京高裁第4刑事部(久永正勝裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[64]。1971年5月20日に最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)で上告棄却の判決を受け[65]、同年6月1日に死刑が確定[62]。 死刑確定後の1977年5月21日、収監先・東京拘置所の独房で窓ガラスを割り、その破片で首を切って自殺(36歳没)[62]。
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烏山の呉服商一家三人殺し事件 (M)[66] |
1971年8月17日 |
1968年12月28日[67] |
犯行当時19歳の少年死刑囚[66]。栃木県那須郡烏山町興野(現:那須烏山市興野)在住の工員[67]。 1968年12月28日13時ごろ、正月を家族で過ごすために必要な5、6万円の金を工面するため、以前から何回も買い物に行っていた[66]烏山町中央二丁目[67]の呉服店[68]へ強盗に入り、経営者家族を殺して現金を奪おうと考え、裁ちばさみの刃を分離したものを持った上で同店を訪れ[66]、21時ごろにワイシャツを買いに来ると言って店を開けておくことを約束させた[69]。そして21時45分ごろに再び同呉服店を訪れ、店主である男性(当時39歳)の妻(同31歳)の背中を三十数回突き刺して殺害した[66]。次いで2階にいた店主も刺殺し、ベッドの脇で泣きじゃくっていた[66]親類の女児(同3歳)[68]も顔や首11か所を刺して殺し、店内から現金5000円などを奪って逃走した[66]。翌1969年1月9日、東京で逮捕された[67]。 強盗殺人罪に問われ、1970年11月11日に宇都宮地裁(須藤裁判長)で死刑判決を言い渡された[67]。弁護人はMについて、社会的適応性欠乏による心神耗弱を主張したが、宇都宮地裁はMの生い立ち(3歳の時に母や兄弟とともに父親に見捨てられ、極貧かつ親の愛情に飢えて育った)から社会的適応性が欠如していることを認めたが、善悪を分別できないほどではなかったと判断した[67]。宇都宮地裁で言い渡された死刑判決は、1967年に宇都宮市で発生した「山本山殺人事件」の主犯(最高裁で死刑確定)に言い渡されて以来、2年4か月ぶりであった[67]。Mは控訴したが、1971年6月14日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、同年8月17日に自ら取り下げ、死刑が確定。 死刑執行日は不明。
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戸塚の母子殺し (H)[70] |
1971年11月11日[71] |
1967年3月14日 |
酒を飲んで結納金を融通できなくなったことから、1967年3月14日昼ごろ、神奈川県横浜市戸塚区瀬谷町の溶接工男性宅に借金のため訪れ、切り出せないまま帰ろうとしたが、男性の妻(当時25歳)から「主人の留守中に来ないでくれ」と言われたことに逆上、咄嗟に首を絞め、台所の包丁で刺殺した[70]。さらに、物音で目を覚ました長女(当時1歳3か月)も絞殺し、男性定義の郵便貯金通帳、印鑑などを奪い、台所のガス栓を開けて逃走、そのまま背や郵便局で約5万円を引き出して結納を済ませ、婚約者を呼び出した上で[70]、静岡県賀茂郡河津町の湯ヶ野温泉に潜伏していたが、事件発生から1週間後の21日に逮捕された[72]。 強盗殺人、私文書偽造、同行使、詐欺の罪に問われ、1969年4月30日、横浜地裁第1刑事部(野瀬裁判長)で死刑判決を言い渡された[70]。同年12月17日、東京高裁は原判決を破棄自判した上で、改めてHに死刑判決を言い渡した。 Hは上告したが、1971年10月26日に最高裁第三小法廷(下村三郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[73]。同年11月11日、最高裁第三小法廷で上告審判決に対する判決訂正申立を棄却する決定を受けた[71]。 1975年12月7日に死刑執行(37歳没)。
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1972年
1972年(昭和47年)に死刑判決が確定した死刑確定者は8人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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北区の義妹夫妻殺し (F)[74] |
1972年1月18日[76] |
1969年2月20日[77] |
愛知県名古屋市北区生駒町一丁目在住の工員[77]。 1970年2月20日18時ごろ、北区安井町二丁目の製菓店員男性(当時27歳)宅にハンマーを隠し持って訪れ、借金52万円の返済を待ってほしいと頼んだが断られたため、男性と彼の妻であり、自身の妻の妹である女性(当時27歳)の夫婦を、それぞれハンマーで撲殺した[77]。借金をした理由は麻雀に凝り、生活費に困ったためで[74]、Fは犯行後、女性から「金を返さなければ、内緒にしている姉(Fの妻)に金を貸していることを話す」と言われ、妻に借金が発覚することを恐れて殺意を抱いたと述べている[77]。しかし、公判では自供を翻し、事件当夜に男性宅から自転車で帰宅する途中にブレーキが利かなくなり、修理のため男性宅に戻ったところ、夫婦が倒れており、現場に自分のハンマーが落ちていたので疑いをかけられると思い、ハンマーを持ち去ったと供述した[77]。 強盗殺人罪に問われ、1970年2月27日に名古屋地裁刑事第4部(堀端弘士裁判長)で死刑判決を言い渡された[77]。名古屋地裁では1960年以降、4件目(5人目)の死刑判決を受けた被告人である[77]。Fは控訴したが、同年7月27日に名古屋高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。 上告したが、1971年12月21日に最高裁第三小法廷(関根小郷裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[74]。1972年1月18日、判決訂正申立を棄却する決定を受けた[76]。 1976年に死刑執行(42歳もしくは43歳没)。
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京都幼稚園管理人夫婦強盗殺傷事件 (A) |
1972年3月17日[78] |
1966年6月12日[79] |
大分県生まれ、元左官[79]。1966年6月11日夜、借金をするため知人である京都市左京区黒谷町黒谷、黒谷浄土宗金戒光明寺内「くろたに幼稚園」の用務員男性(当時69歳、1968年2月に病死)宅を訪れ、同園宿直室に泊まり込んだが、12日2時ごろ、就寝中の男性と同園手伝いの女性(当時56歳)を火鉢や鉄棒で滅多打ちにして女性を殺害、男性にも重傷[注 4]を負わせ、現金72000円とカメラを奪って逃げた[79]。被害者の女性は男性の内妻である[80]。21日後の7月2日、東京都内で逮捕された[79]。 Aはこの事件以前の1950年3月にも大分県別府市で[79]、知人の主婦[80]に金の無心を断られたことからバールで撲殺する事件を起こし、無期懲役を言い渡されたが、1965年4月に仮釈放され、仮出獄中に犯行におよんだ[79]。 窃盗、強盗殺人、同未遂の罪に問われ、1968年12月12日、京都地裁第4刑事部(森山淳哉裁判長)で死刑判決を言い渡された[79]。弁護人は死刑違憲論などを主張して控訴したが、1969年12月23日に大阪高裁(本間末吉裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[80]。 1972年2月22日、最高裁第三小法廷(天野武一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[81]。1972年3月17日付で、最高裁第三小法廷から判決訂正申立を棄却する決定を受けた[78]。 1976年に死刑執行(62歳もしくは63歳没)。
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長崎の女子中学生殺し (K) |
1972年4月20日 |
1969年4月19日 1969年5月26日[82] |
静岡県島田市生まれ[82]。 1969年4月15日、愛知県海部郡弥富町(現:弥富市)で盗んだ車を無免許運転していたところタクシーと衝突する事故を起こし、自身もタクシー運転手も3か月の怪我を負った[82]。このため町内の病院に入院していたが、4日後の同月19日[83]、入院先で看病に来た母親(当時55歳)から事故のことで叱られたことに逆上[82]、母親を絞殺して約10万円を奪い、長崎県長崎市に逃げた[82]。その後、約1か月間遊び暮らして所持金を使い果たし[82]、同年5月26日に長崎県西彼杵郡伊王島町仙崎(現:長崎市伊王島町仙崎)の伊王島工業所社員宅に空き巣目的で侵入したが、帰宅した町立伊王島中学校2年生の次女(当時13歳)に見つかったため[83]、乱暴した上で電気コードで絞殺、2000円を盗んで逃げた[82]。 強盗殺人、強盗強姦、尊属殺人の罪に問われ、1970年11月20日、長崎地裁(安仁屋裁判長)で死刑判決を言い渡された[82]。控訴したが、1971年7月21日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。 1972年4月20日、最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[83]。 1976年9月2日に死刑執行(27歳没)。
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名張毒ぶどう酒事件(奥西勝) |
1972年7月5日[84][85] |
1961年3月28日 |
1926年(大正15年)1月14日生まれ[86]。 確定判決によれば1961年3月28日、三重県名張市葛尾の集落で開かれた懇親会の酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に農薬「ニッカリンT」を混入し、そのワインを飲んだ集落の女性17人を中毒症状に陥らせ、5人を死亡させたとされる[88]。 1964年12月13日、津地裁[89](小川潤裁判長[88])で証拠不十分として無罪判決を受けた[89]。しかし検察側が控訴したところ、1969年9月10日に名古屋高裁刑事第1部(上田孝造裁判長)[注 5]で原判決を破棄され、有罪として死刑判決を受けた[88]。 1972年6月15日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却判決を受けた[90]。判決訂正申立も同年7月4日付で同小法廷が出した決定[事件番号:昭和47年(み)第8号]によって棄却され[91]、翌5日付で死刑が確定[84][85]。第一審の無罪判決が控訴審で死刑に逆転した例は、最高裁によれば1958年(昭和33年)以降では初で[88]、その死刑判決が確定した事件も戦後初である[90]。 死刑確定後は無実を訴えて再審請求を繰り返し、2005年4月には第7次再審請求が認められたが、検察の異議申し立てにより2006年12月に再審開始取り消し決定がなされた。最高裁で2010年4月に名古屋高裁への差し戻し決定がなされるも、その後も再審は認められなかった。 第9次再審請求中の2015年10月4日に八王子医療刑務所で病死(89歳没)。死後、2015年11月6日に実妹が第10次再審請求。
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きぬ子さん殺し (K)[92][93] |
1972年6月27日 |
1969年9月1日[95][93] |
事件当時19歳6か月の少年死刑囚。宮城県角田市在住[92]。 1969年9月1日19時10分ごろ、宮城県亘理郡山元町高瀬字天王川の町道で、近くに住む帰宅途中の東北大学農学研究所勤務の女性(20歳)を襲い[95]、背後から左手を首に巻き付けて後方に引き寄せ、所携の小刀を女性の背中に数回突き刺すなどして強姦し、失血死させた。同日20時過ぎ、被害者の他殺体が被害者宅近くの松林で発見され、Kは同月3日、現場近くの物置から出てきたところを逮捕された[92]。 第一審の仙台地裁では死刑が求刑されたが、同地裁(杉本正雄裁判長)は1971年1月28日に無期懲役の判決を言い渡した[95]。同地裁は判決理由で、何の面識もない被害者を路上で殺害した残虐非道な犯行であり、平和な農村地帯に不安を与えたと評したが、Kが祖父に盲愛されたことで兄弟などの家族に溶け込めず、高校入試に失敗したことで劣等感・厭世感を強め、犯行に結びついたことを考えると無期懲役が相当であると述べた[95]。 検察官は量刑不当を理由に控訴し、Kの弁護人も犯行時、Kは心神喪失か心神耗弱状態だったとして事実誤認および量刑不当を訴え、控訴した[96]。仙台高裁(山田瑞夫裁判長)は同年8月2日の控訴審判決公判で、原判決を破棄してKに死刑を言い渡した[96][97]。仙台高裁はKの凶器購入、犯行場所・時間の選定、犯跡隠蔽などの行動から心神耗弱は考えられないとして弁護人の主張を退けた上で、犯行の残忍性、社会的影響の甚大さ、Kの無反省な態度などを理由に、Kが犯行時少年だったことなど有利な事情を斟酌しても原判決の無期懲役刑は軽すぎると述べた[96]。 Kは上告したが、1972年6月27日に最高裁第三小法廷(坂本吉勝裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[92]。1976年に宮城刑務所で死刑執行(25歳もしくは26歳没)。
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藤沢市女子高生殺害事件 (S) |
1972年7月18日 |
1967年1月13日 |
1941年(昭和16年)7月10日生まれ[101](出身地:岩手県西磐井郡花泉町[注 6])[102]。強盗強姦・窃盗・傷害の罪により懲役刑に処された前科がある[101]。 神奈川県藤沢市内で帰宅途中の女子高生(事件当時19歳・神奈川県立湘南高等学校定時制4年生)[103]を襲い、強姦した上で絞殺し、死体を被害者宅近くの宅地造成地に埋めた[104]。 第一審・横浜地裁第3刑事部[101](赤穂三郎裁判長)は死刑求刑に対し、1969年3月18日に無期懲役判決を言い渡したが[105]、控訴審・東京高裁刑事第5部(吉川由己夫裁判長)[104]は1971年(昭和46年)11月8日に逆転死刑判決を宣告[106]。1972年(昭和47年)7月18日に最高裁第三小法廷(田中二郎裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[107]。1972年10月26日付で、最高裁第三小法廷から判決訂正申立を棄却する決定を受けた[108]。 死刑確定後も再三にわたり再審請求を繰り返したが、確定から10年4か月後の1982年11月25日に東京拘置所で死刑執行(41歳没)。拘置所長から死刑執行を宣告された際には激しく抵抗し、刑場で刑務官たちと格闘を繰り広げた。
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戸田の一家4人殺し (H)[113] |
1972年8月1日 |
1970年8月9日[114] |
埼玉県戸田市下笹目3271番地の実兄(当時40歳)宅を襲撃し[114]、一家4人(兄と37歳の妻、12歳長男、7歳次男)をまき割で殴殺、妻に乱暴した事件[113]。 1972年7月17日に浦和地裁(石橋浩二裁判長)で死刑判決を受けた[114]。控訴期限の7月31日までに控訴せず、死刑が確定[115][113]。当時、死刑判決に対し被告人側が控訴せず確定する事例は珍しいものとされていた[113]。 1976年4月27日に死刑執行(39歳没)。
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尼崎の母娘殺し (M)[116] |
1972年12月22日[117] |
1969年4月5日[118] |
山口県宇部市生まれ[118]。 1969年4月5日2時30分ごろ、兵庫県尼崎市宮内町の女工A(当時50歳)宅に押し入り、階下で寝ていたAの頭や顔をまき割り用ナタ(刃渡り15 cm)で数回殴って殺した[118]。直後、そばで寝ていて目を覚ましたAの次女B(当時21歳)にも殴りかかり、逃げようと悲鳴を上げながらもがくBの全身を数十回にわたって殴り、ぐったりしたところを乱暴した[118]。Bが死亡した後、Mは部屋を物色して母娘2人の持っていた現金430円と指輪、ネックレス、衣類など31点(50000円余り相当)を奪った。犯行は事件前夜に鑑賞した、八海事件を題材とした映画『真昼の暗黒』の模倣だった[118]。 殺人未遂、盗みなど11の前歴があり、1969年2月26日に窃盗の刑期を終え、父が下宿していた事件現場の家の2階に下宿したが、母娘が刑務所帰りを嫌っていると聞き、同年3月5日に父親の預金通帳などを盗んで家出していた[118]。その後、金を使い果たしたため強盗に入ることを計画し、「悪口」への報復のためこの家に押し入ったものである[118]。 強盗殺人、強盗強姦、有価証券偽造、同行使、詐欺、窃盗の罪に問われ、1970年11月4日、神戸地裁尼崎支部(藤原啓一郎裁判長)で死刑判決を言い渡された[118]。控訴したが、1971年9月30日に大阪高裁刑事第4部(田中勇雄裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[119]。 1972年12月8日、最高裁第二小法廷(岡原昌男裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[116]。同月22日付で、最高裁第二小法廷から判決訂正申立を棄却する決定を受けた[117]。1976年4月23日に死刑執行(37歳没)。
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1973年
1973年(昭和46年)に死刑判決が確定した死刑確定者は4人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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連続女性誘拐殺人事件(大久保清) |
1973年3月9日[120] |
1971年3月31日 - 5月10日[121] |
1935年(昭和10年)1月17日生まれ、群馬県碓氷郡八幡村(現:高崎市八幡町)出身。1971年3月から5月にかけ、群馬県(多野郡新町・高崎市・前橋市・伊勢崎市・藤岡市)で、女子高生やOLら若い女性8人を次々と言葉巧みに誘い出して殺害、遺体はすべて土中に埋めた[124]。この他、富岡市で起こした強姦・強姦致傷の余罪1件がある[126]。その巧妙で残虐な犯行手口から、事件当時は「第二の小平事件」と世間を震撼させた[124]。 強姦致傷、強姦、殺人、死体遺棄の罪に問われ、1973年2月22日に前橋地裁(水野正男裁判長)で死刑判決を受けた[127]。同年3月8日の控訴期限までに控訴しなかったため、死刑が確定[128]。 1976年1月22日に東京拘置所で死刑執行(41歳没)[124]。死刑確定から2年10か月後の死刑執行であり、当時は「スピード執行」と報じられた[124][129][130]。
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夜須農協の宿直員殺し[注 7] (K)[133] |
1973年3月2日 |
1967年6月20日[131] |
ガス溶接工だったころ、仲間から溶接技術を悪用した金庫破りの話を聞き、遊興費欲しさに犯行におよんだ[132]。 1967年5月15日から逮捕されるまでの間、福岡県内(福岡市・久留米市・甘木市)などで8回にわたって軽自動車、ガス切断用具1式等計135万円相当を盗んだ[132]。同年6月2日未明3時ごろ[134]、Kは盗んだ軽自動車やガス切断機などを持って福岡県粕屋郡糟屋町仲原の仲原農協に侵入し、金庫の扉を焼き切ろうとしたところで近隣住民の男性(当時29歳)に発見されて追いかけられたため、用意していた斧で男性の背中を斬りつけ、15日間の怪我を負わせて逃走した[131]。その18日後の同月20日、再度金庫破りを企て、成功するためには宿直員を殺す必要があると考えた上で、盗んだ車で以前から下見していた朝倉郡夜須町東小田の夜須農協に行き[132]、同日3時30分ごろ[134]、宿直室で寝ていた宿直員の男性(当時20歳)の首をナタで滅多斬りにして殺害、金庫室の扉をガス切断機で切断しようとしたが、夜明けまでに破れなかったため断念して逃走した[131]。翌21日朝、福岡市和白で車を盗んだが、タクシー運転手らに取り押さえられ逮捕された[131]。犯行後、証拠品を所々に捨てており[132]、また1968年1月には収監先であった福岡拘置支所の屋上から飛び降りて逃走しようともした[135]。 強盗殺人、強盗傷害、窃盗の罪に問われ、第一審の公判では死刑を求刑されたが、福岡地裁第3刑事部[135](塩田駿一裁判長)は1969年12月19日の判決公判で、犯行は計画的かつ残忍であり、動機にも同情の余地はないとしつつも、不幸な生い立ち[131]、仲間から金庫破りをそそのかされたこと、犯行後に反省していることなどを指摘し、無期懲役とする判決を言い渡した[135]。Kは犯行時、ノイローゼ気味で計画的犯行ではなく、殺意もなかったと主張していたが、精神鑑定では平常人との結果が出ていた[132]。 検察官と被告人側の双方が控訴したところ、福岡高裁第3刑事部(中村荘十郎裁判長)は犯行動機の悪質性や犯行の残忍性、また留置中に3回逃走を企てたこと、法廷で被害者の母親に向かって舌を出したことなどから反省の念が認められないと指摘、原判決を破棄してKを死刑とする判決を言い渡した[132]。同高裁は判決宣告時に主文を後回しにせず、冒頭で読み上げている[136]。 Kは上告したが、1973年3月2日に最高裁第二小法廷(岡原昌男裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[137][133]。 1976年9月2日に死刑執行(34歳没)。
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富山少女殺害事件 (T) |
1973年10月18日 |
1970年3月29日 |
1977年に死刑執行(33歳没)。
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徳山の女性金融業者宅強殺事件 (B) |
1973年9月27日 |
1967年11月11日 |
Bは共犯の男K(控訴審で無期懲役が確定)と共謀し、1967年11月11日朝、山口県徳山市二番町(現:周南市徳山二番町)の女性金融業者宅に押し入り、切り出しナイフで金融業者を脅したが、彼女の悲鳴を家政婦(当時42歳)に聞かれたため、首を手ぬぐいで絞めるなどして殺害した[138]。また2人で金融業者の手足を縛り、現金9000円や小切手(額面350万円)、指輪を奪った上、銀行に電話をかけさせ約42万円を届けさせそれを奪取し、逃亡時にBは金融業者の首を縛った[138]。金融業者は命は助かったが、全治7か月の重傷を負った[138]。 強盗殺人、強盗殺人未遂の罪に問われ[139]、山口地裁で死刑判決を言い渡された後、広島高裁でも控訴棄却の判決を言い渡された[138]。1973年9月27日、最高裁第一小法廷(岸盛一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[138]。同年11月26日、同小法廷で上告審判決に対する判決訂正申立を棄却する決定を受けた[139]。 1978年に死刑執行(46歳もしは47歳没)。
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1974年
1974年(昭和49年)に死刑判決が確定した死刑確定者は2人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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神奈川3人連続毒殺事件 (H) |
1974年2月18日 |
1969年12月14日[141] 1969年12月21日[141] 1969年12月29日[141] |
1969年12月13日夜、友人の男性(当時51歳)と東京都内で飲酒した際、自分が飲み代を払わされたことに腹を立て、翌14日1時30分ごろ、レンタカーで男性を川崎市内の多摩川河川敷に誘い、酒酔いの薬と称して青酸カリ入りカプセルを飲ませて毒殺、死体を川崎市内の砂利続き場に埋め、男性のアパートから現金や腕時計を盗んだ[141]。さらに同月21日にも同様の手口でレンタカー料金を催促した横浜市鶴見区のコジマレンタカー鶴見営業所住み込み従業員男性(当時26歳)を、同月29日夜にも借金の申し出に応じなかった横浜市港北区の元同僚の男性(同31歳)を毒殺した[141]。また犯行を隠蔽するため、被害者宅に放火もした[142]。 強盗殺人、死体遺棄、窃盗、私文書偽造、同行使、詐欺未遂、非現住建造物等放火、死体損壊の罪に問われ、1971年12月17日、横浜地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1972年10月9日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。 1973年12月13日、最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された。同判決への判決訂正申立も、1974年2月6日付の決定で棄却され[143]、同月18日付で死刑が確定。死刑執行日は不明。
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大田原女性セールスマン殺害事件 (M) |
1974年7月2日 |
1971年8月2日[144] |
栃木県大田原市下石神の自宅で、母親と共謀し、呼び出した知人女性(当時44歳:ポーラ化粧品大田原営業所長)をナタで撲殺し、現金13,000円を奪った[144]。 強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、1973年4月26日、宇都宮地裁で無期懲役の判決を言い渡された。同日、共犯である母親も懲役8年(求刑:懲役12年)の判決を言い渡された[145]。同年12月19日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された。同判決を不服として上告したが、1974年7月2日に自ら上告を取り下げ、死刑が確定。 1975年9月5日未明、収監先の東京拘置所の独房内で、シーツで首を吊って自殺(34歳没)[144][146]。東京拘置所で収監者が自殺した事件は、1973年1月1日に連合赤軍最高幹部の森恒夫が自殺して以来だった[147]。
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1975年 - 1979年
1975年
1975年(昭和50年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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沼津金融業者殺害事件 (W)[148] |
1975年1月27日[149] |
1969年2月21日[150] |
1936年(昭和11年)2月9日生まれ。 1969年2月21日、共犯2人とともに、御殿場市の質商(当時47歳)に架空の株取引話を持ちかけ、現金500万円を用意させた上で沼津市内のバーに呼び出し、睡眠薬を飲ませ絞殺した[150]。死体を田方郡函南町の山林に埋め、現金428万円と腕時計(40万円)を奪った[150]。 大金を持った質商の蒸発事件として世間の注目を集めたが、御殿場警察署に設置された静岡県警の特捜本部が聞き込みによって犯行グループを特定、同年9月16日に被害者の遺体が発見された、共犯2人は同日逮捕[150]。死体の運搬・遺棄に関与した2人も逮捕され、Wは闘争を続けたが、約1年後の1970年1月31日、全国重要指名手配者として発表され、福岡県門司市内で逮捕された[150]。 逮捕後、贖罪のために獄中で考案した排気ガス浄化装置が、特許庁から実用新案として認められ、「発明家死刑囚」として話題になった[148]。 強盗殺人と死体遺棄の罪に問われ、1971年7月16日に静岡地裁沼津支部(松本五郎裁判長)で死刑判決を言い渡された[150]。共犯2人の打ち1人は求刑通り無期懲役を、幇助の罪に問われたもう1人は懲役3年6月(求刑:懲役7年)の判決を言い渡された[150]。Wは無期懲役を求めて控訴し、拘置所内で贖罪のため排気ガス装置を考案していたことから東京高裁の判決が注目されていたが、1972年12月6日に東京高裁第7刑事部(海部安昌裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[152]。 1974年12月20日に最高裁第二小法廷(吉田豊裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された(当時38歳)[148]。判決訂正申立も1975年1月27日付の同小法廷決定で棄却され、死刑が確定[149]。 1977年に死刑執行(40歳もしくは41歳没)。
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由宇町2女性強盗殺傷事件 (H) |
1975年5月27日 |
1966年10月7日 |
1936年(昭和11年)8月3日生まれ。 金に窮して自暴自棄になったことから、登山用ナイフ(刃渡り約14 cm)を用いた強盗殺人を計画。1966年10月7日、山口県玖珂郡由宇町(現:岩国市)の民家に侵入し、家人である男性の妻(当時26歳)と祖母(当時79歳)を襲撃した。2人にナイフを突きつけて脅し、現金3,000円を奪った上で相次いで2人の首を絞め、祖母を殺害した。妻は殺し損ねたものの、彼女を強姦しようとしたが、「妊娠中だからやめて」と告げられて嫌悪の情を感じ、欲情が減退したため目的を遂げなかった。 住居侵入、強盗殺人、同未遂、強盗強姦未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ、1968年11月21日に山口地裁岩国支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1972年7月28日に広島高裁第4部で控訴棄却の判決を言い渡された。 1975年(昭和50年)5月27日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1983年11月29日に広島拘置所で死刑執行(47歳没)[159]。
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木曽川アベック殺人事件 (O) |
1975年10月3日 |
1973年2月4日 - 5日[160] |
1938年(昭和13年)10月20日生まれ、仮枠大工(事件当時34歳)。山口県下関市生まれ。 大工仲間の男2人(当時30歳のX、23歳のY)と共謀し[163]、1973年2月4日に愛知県尾西市の木曽川河川敷(Oらが働いていた建設現場近く)にいた面識のない男女2人(ともに当時19歳)を襲撃、OがXとともに男性を登山ナイフで刺殺した[160]。男性の遺体はその後、尾西市富田の富田山公園付近(木曽川左岸の旧堤防と新堤防の間)で発見されており、事件当時乗っていたオートバイも同公園で発見されている[164]。 その後、3人は女性を労務者宿舎に連れ込んでかわるがわる乱暴した上、翌5日未明に絞殺した[160]。同日朝、宿舎に出勤してきた男Z(当時31歳)を脅して3人でZの運転する車に乗り[163]、女性の死体を岐阜県各務原市須衛の通称「大平山」頂上付近の山林(標高約150 m、東海自然歩道の一部)に遺棄した[164]。その後、Oら殺人に関わった3人と、女性の死体遺棄に関与したZの計4人が逮捕された[163]。 Oら3被告人は殺人・強姦・死体遺棄の罪に問われ、検察官はO・Xの両被告人に死刑、被告人Yには懲役15年をそれぞれ求刑[165]。1973年10月24日、名古屋地裁一宮支部(服部正明裁判長)は主犯Oを死刑、Xを無期懲役、Yを懲役12年とする判決を言い渡した[165]。同地裁支部はXについては「Oに追従した犯行で、悪質だが死刑を科するほどではない」と無期懲役を[166]、Yも女性殺害をやめるよう2人に働きかけたものの、Oの強引な性格に引っ張り込まれたことを考慮し[167]、「犯行が軽い」と懲役12年を適用していた[166]。名古屋地裁管内における死刑判決は、妻の妹夫婦をハンマーで撲殺した男に対し、名古屋地裁が1970年2月に言い渡して以来だった[167]。 O・Xの両被告人は量刑不当を主張して控訴した一方、名古屋地検もXを死刑にすべきとして控訴した。Yも量刑不当を理由に控訴したが、まもなく取り下げ、懲役12年の刑が確定[160]。1974年7月4日、名古屋高裁刑事第2部(小淵連裁判長)は控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[166]。Xは控訴審で無期懲役が確定[160]。 Oは上告したが、1975年10月3日に最高裁第二小法廷(大塚喜一郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、一・二審の死刑判決が確定[160]。 名古屋拘置所に収監されていたが[160]、1977年に死刑執行(38歳没)。
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1976年
1976年(昭和51年)に死刑判決が確定した死刑確定者は2人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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ピアノ騒音殺人事件 (O) |
1976年10月5日 |
1974年8月28日[169] |
1928年(昭和3年)6月4日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在96歳)。2018年6月時点で、日本における収監中の死刑囚としては最高齢[170]。 神奈川県平塚市田村の県営横内団地34棟406号に居住していたが、自身の居室の真下(306号室)に住む会社員男性A(事件当時37歳)宅からのピアノの練習音や日曜大工の騒音にかねてから不快の念をもっており、注意しても聞き入れてもらえないと腹を立て、Aの妻子を殺害しようと決意した[169]。1974年8月28日朝、刺身包丁や晒し布、ペンチを持ってAの居室に侵入、ピアノを弾いていたAの長女C(当時8歳)と次女D(同4歳)、妻B(同33歳)の母子3人を次々と刺殺した[169]。 殺人と窃盗の罪に問われ、1975年10月20日に横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)で死刑判決を受けた[169]。団地内の近隣騒音を巡るトラブルが発端となった殺人事件として裁判の経過が注目され、1970年に結成された「騒音被害者の会」が横浜地裁小田原支部にOの助命嘆願書を提出するなどの動きも見られたが、同地裁支部は弁護人による「Oは犯行時、心神耗弱だった」という主張を退け、また被害者宅からのピアノの音はO宅で40 - 45ホンであり、隣近所に不快感を与えるほどではなく、Oが音に対する極度の神経過敏症の持ち主だったこと、両家の意思疎通が欠けていたことによって起きた事件であると認定した[169]。 東京高裁刑事第4部(寺尾正二裁判長)に係属した控訴審では[171]、中田修が犯行時のOはパラノイアに罹患しており、事理弁識能力が欠如していたとする精神鑑定の結果を提出した[172]。高裁の判断次第では心神喪失や心神耗弱が認定され、死刑判決が破棄される可能性もあったが[172]、Oは1976年10月5日付で自ら控訴を取り下げ[172]、死刑が確定。弁護人の井本良光は刑事第4部に対し、取り下げ時のOの精神状態には問題があると主張し、控訴取り下げの無効を申し立てていたが、同部は同年12月、控訴取り下げは有効とする決定を出した[171]。井本は同決定を不服として異議申立を行ったが、東京高裁刑事第5部(谷口正孝裁判長)は1977年4月11日付で、Oは控訴を取り下げれば死刑判決が確定することを理解した上で、自らそれを望んで取り下げを行ったため、控訴取り下げは有効であるとして、異議申立を棄却する決定を出した[171]。井本は死刑になることを望むOの意思を尊重し、同月17日0時の特別抗告期限までに抗告を行わなかったため、異議申立審は終結した[173]。
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波崎事件 (T) |
1976年4月1日 |
1963年8月26日 |
1917年(大正6年)4月26日生まれ(事件当時46歳)。茨城県鹿島郡波崎町(現:神栖市)在住、不動産売買仲介業[174]。 内妻の従兄弟である男性(当時35歳)[注 8]に、自身や男性の妻を受取人とした600万円の生命保険をかけた[176]。1963年8月26日0時10分ごろ[175]、自宅を訪れた男性が「今夜は興奮して眠れない」と言うので、アスピリンと称して青酸化合物入りカプセルを飲ませた[175]。これは運転中に交通事故死したように見せかけることが目的であり[174]、無免許の男性に自分の車を貸して帰宅させた[176]。男性はそのまま車で帰宅したが、帰宅直後の0時15分ごろになって苦しみ出し、死亡した[175]。また1959年6月3日夜には[176]、内妻のおじ夫婦に保険をかけた上で夫婦宅に押し入り、棍棒で夫婦を殴打して2週間の怪我をさせたとされる殺人未遂事件や、知人など2人の生命保険契約書を偽造して自身や内妻を受取人にした私文書偽造・同行使の罪でも起訴された[174]。 殺人、殺人未遂[174]、私文書偽造、同行使の罪に問われたが[177]、公判では殺人・殺人未遂について一貫して否認し、殺人は自殺、殺人未遂は別人の犯行をそれぞれ主張した[174]。また捜査段階では殺人で用いられたとされる青酸化合物の入手先が判明しないなど、Tの犯行を裏付ける物的証拠はなかったが[174]、1966年12月24日に水戸地裁土浦支部(田上輝彦裁判長)で死刑判決を言い渡された[175]。同地裁支部は、殺人の被害者が死の直前に妻に対し「薬を飲まされた」「Tに騙された」等と話していたことなどから、全面的に有罪と認定した[174]。Tが控訴したところ、東京高裁刑事第1部(堀義次裁判長)は1973年7月6日、原判決を破棄自判した上で改めて死刑判決を言い渡した[176]。同高裁は殺人未遂事件についてはTのアリバイ成立を認定し[176]、別人の犯行の疑いもあるとして無罪としたが[174]、殺人については第一審と同様に有罪と認定した[174]。 1976年4月1日に最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)で上告棄却判決を言い渡され、死刑が確定[177]。 死刑確定後には2度にわたって再審請求していたが、いずれも棄却された。また慢性腎不全と高血圧症の持病があり、2002年10月からは東京拘置所内の病棟に収容され、社内の医師だけでなく外部の専門医からも人工透析などの治療を受けていた。衆議院でも容態が非常に悪化していることが取り上げられていたが、2003年9月3日に慢性腎不全のため、東京拘置所で病死(86歳没)[178]。
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1977年
1977年(昭和52年)に死刑判決が確定した死刑確定者は2人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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沖縄県名護市一家3人殺傷事件 (O) |
1977年6月2日 |
1973年3月30日 |
1942年(昭和17年)3月30日生まれ(事件当時31歳)。本籍地は沖縄県国頭郡今帰仁村。 沖縄県名護市字古我地嵐山原630番地の1[注 9]にあった義父宅で、義母(当時47歳)と義弟(同19歳)の2人をステンレス製料理用包丁(刃体の長さ約26 cm)で刺殺し、義父(当時62歳)も包丁で刺し殺そうとして2か月の怪我を負わせた。また、同住宅に放火する目的で、付近の藪の中にポリ容器入りのガソリンを隠していた。 動機は自身の不倫から妻に家出され、義父母に乱暴な振る舞いをしたことから離婚話が出たところ、それを逆恨みしたものだった。事件から3日後の4月2日、現場から約19 km離れた名護市瀬嵩の空き家で逮捕された[189]。 放火予備、殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗の罪に問われた。同年6月4日に名護警察署から尊属殺人罪で那覇地検へ送検されていたが、尊属殺人重刑を規定していた刑法第200条について最高裁大法廷で違憲判決が下っていたため、通常の殺人罪(刑法第199条)で起訴された事件としても注目された[191]。 1974年(昭和49年)3月12日、那覇地裁刑事第2部(玉城栄助裁判長)で死刑判決を受けた[191]。戦後、那覇地裁における死刑判決は(アメリカ統治時代を含めて)Oが7人目で、1972年の日本復帰後では2人目だった[注 10][192]。 1976年(昭和51年)1月19日、福岡高裁那覇支部(高野耕一裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[196]。 1977年(昭和52年)4月26日に最高裁第三小法廷(服部高顕裁判長)で上告棄却の判決を受け[197][198][199]、同年6月2日付で死刑が確定。 1980年12月16日に福岡拘置支所[注 11]で死刑執行(38歳没)。
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北九州組員4人連続殺人事件 (K) |
1977年6月7日 |
1975年6月4日 1975年6月17日 |
1945年(昭和20年)4月12日生まれ[注 12](事件当時30歳)。暴力団合田一家三代目小桜組の元組員[204]。 福岡刑務所に服役中[注 13]、同じ作業所で働いていた男性(事件当時46歳)[注 14]の紹介を受け、1975年4月24日に仮出所すると翌日に「小桜組」に入った。知人男性宅(福岡県北九州市小倉南区城野一丁目のマンション)で男性夫婦と同居して覚醒剤の密売を始めたが、男性の内妻(当時34歳)[注 15]と不倫関係になり、それを巡って男性とトラブルになったことで本事件を起こした(強盗殺人・殺人・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反)。
- 1975年6月4日に服役中に知り合った知人男性(当時46歳)とその内妻(同34歳)を脇差で刺殺し、知人所有の宝石類等28点と約束手形3通(額面:各200万円)を強取した。
- 同月17日、北九州市戸畑区正津町で2件の殺人事件。覚せい剤の密売で協力しあっていた知人男性(28歳)が金銭関係の清算に応じなかったことから、この知人を拳銃で射殺したほか、偶然逃走中に出会った女性(28歳)に匿ってもらうよう頼んだが、断られたため拳銃で射殺した。
このほか殺人未遂・公務執行妨害1件[注 16]、覚醒剤取締法違反2件を犯した。 当時は市内で暴力団の抗争事件が相次いでおり、一連の犯行は市民に恐怖を与えた[204]。強盗殺人、殺人、殺人未遂など7件の罪に問われ、弁護人は公判で覚せい剤の影響により正常な判断ができない状態にあった旨などを主張したが、1977年3月30日に福岡地裁小倉支部刑事第2部(福嶋登裁判長)で死刑判決を言い渡された[204]。福岡地裁小倉支部で言い渡された死刑判決は、1964年12月23日に言い渡された西口彰の第一審判決以来のことだった[204]。判決直後に弁護人が独断で控訴したが、同年6月7日に当時収監されていた小倉拘置所の最高所長宛に自ら控訴取下書を提出し、同日付で死刑が確定した[注 17][211]。 死刑確定から1週間後に小倉拘置所から死刑執行設備を有する福岡拘置支所へ移送され[212]、1978年11月16日に同所で死刑執行(33歳7か月没)[212][210][213]。佐木隆三の著書『復讐するは、我にあり』などを愛読しており、死刑確定前には佐木と交流していた[212]。佐木はKの死刑執行後の1979年、Kが遺した手記を基にノンフィクション小説『曠野(こうや)へ―死刑囚の手記から』(講談社)を出版した[210]。
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1978年
1978年(昭和53年)に死刑判決が確定した死刑確定者は4人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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正寿ちゃん誘拐殺人事件 (K) |
1978年1月5日 |
1969年9月10日 |
1950年(昭和25年)8月28日生まれ。犯行時19歳の少年死刑囚。 金のある質屋の子供を誘拐して身代金を得ようと考え、東京都渋谷区内で当時6歳の男児(広尾小学校1年生・渋谷区恵比寿在住)を身代金目的で誘拐し、渋谷区東三丁目の公衆便所内にて繰り小刀で刺殺した。その後、男児の死体をオープンケースに詰め、これを駅構内の携帯品一時預かりところに預けて遺棄したほか、男児の実家(質屋)に電話を掛けて身代金500万円を要求した(殺人・死体遺棄・身代金目的拐取および要求)。このほか身代金目的拐取予備1件・器物損壊2件・恐喝未遂1件・現住建造物放火未遂1件の余罪あり。 1972年(昭和47年)4月8日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け、1976年(昭和51年)7月20日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。 1977年(昭和52年)12月20日に最高裁第三小法廷で上告棄却判決を受け、翌1978年(昭和53年)1月5日に死刑が確定。1979年に東京拘置所で死刑執行(29歳没)。
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東京連続少年誘拐殺人事件 (K) |
1978年2月9日 |
1965年1月22日 1970年10月17日 |
1925年(大正14年)5月31日生まれ(2. の事件当時45歳)。海軍軍楽隊当時、上官から求められて同性愛行為の間柄となったことを契機に、終戦後にはバンド仲間や家出少年、勤務先の工場付近で遊んでいた中学生などと同性愛行為を繰り返し、1962年(昭和37年)6月には中学生の裸体写真を撮影したことが発覚して警察署で取り調べを受けたこともあった[注 18]。
- 1965年(昭和40年)1月22日19時ごろ、東京都小金井市中町で帰宅途中に偶然見かけた小学校6年生の男児(12歳)を「いずれ将来は同性愛行為の対象にしよう」と考え、男児と親しくなるつもりで連れ出した。しかし19時30分ごろ、自身が経営していた工場事務室(東京都三鷹市井口)に男児を連れ込んだところ、不安を感じた男児が逃げ出そうとしたため、抱きかかえて工場材料置き場に連れ込もうとしたが、さらに逃げようとした上に大声で騒いだため、これを従業員に気づかれたり、男児を連れ込んだことが警察に露見したりすることを恐れ、男児の殺害を決意。男児の首を荷造り用の紙紐で縛り、同工場または埼玉県狭山市大字根岸の山林内(もしくはその山林に向かう途中の自動車内)で絞殺した。犯行後、自分の工場の空き地で犯行に使用した紙紐や被害者の着衣・鞄などを焼却した。
- 1. の事件後、経営していた工場が経営不振で倒産したため、台東区内の土木建築業者で手配師として働き、山谷で労働者を集めていた。そのような中、小学校3年生の男児(当時8歳)と自身の趣味の話がきっかけで親しくなっていた。1970年(昭和45年)10月17日13時ごろ、男児から頼まれて自身の運転する自動車に同乗させたが、男児が自身を信用しきっていることにつけ込み、荒川河川敷に連れ込んで同性愛行為をしようと決意。荒川河川敷(埼玉県和光市大字下新倉)までわいせつ目的で男児を誘拐し、駐車中の車内で男児の体を触ったが、男児から拒絶され「両親に言いつける」などと言ったり、付近の自動車教習所を見て助けを求めようとする素振りを見せたため、口封じのため殺害を決意。14時30分ごろ、男児の首を強く絞め、鼻を塞いで気絶させたが、男児が死亡したと思って遺棄しようとしたところ、急に男児が起きて「おじさん、僕を殺すのか」と言ったため、車から持ってきた電工用ナイフ1丁(刃体の長さ約8.5 cm)で首を切りつけ、左胸(心臓)を2回刺して殺害。
事件後、警察庁は同じ誘拐であっても営利目的と比べわいせつ目的は罪が軽いとして、罰則強化に向けた検討を行った[228](結果的に変わらず)。
1973年1月31日に東京地裁刑事第11部で死刑判決を受け、1976年10月7日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。 1978年1月26日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け、同年2月9日付で死刑が確定。1981年1月に東京拘置所で死刑執行(55歳没)。
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愛知県武豊町一家3人強盗殺人事件 (O) |
1978年5月4日 |
1971年5月1日 |
1931年(昭和6年)12月9日生まれ(事件当時39歳)。 事業に失敗し、新たに砂利採取業を始めようとした1971年春、愛知県知多郡武豊町冨貴の男性(当時61歳)が山林約30,600 m2(当時の時価総額約2億5,000万円)を売りに出したことを知り、男性を殺害して財産を奪うことを決意[232]。 同年5月1日19時ごろ、土地の売買を装って男性宅を訪れ、男性と彼の内妻(当時44歳)を金槌で撲殺。偶然遊びに来ていた内妻のいとこの女性(当時24歳)も居間で絞め殺し、3人の遺体を全裸にした上で庭の下水用水槽に投げ込み、上からセメントを流し込んでコンクリート詰めにした[232]。 その後、男性宅にあった現金187,000円、預金通帳(残高43万円余)、不動産権利書16通、実印、株券、指輪などを盗み、預金を全額下ろした[232]。また、自らの経営する共和電解工業と男性との間で山林の売買契約が成立したように装い、移転登記も済ませた[232]。被害者3人の遺体は約8か月後に発見された[232]。 強盗殺人、死体遺棄、窃盗、有印私文書偽造・同行使、詐欺、公正証書原本不実記載・同行使の罪に問われた。逮捕当時から主犯は別人と主張。公判でも「殺害実行犯は『平山』という別人の男で、自分は遺体を埋めただけだ」と主張し[233]、公判中にも逃亡を図ったが、1974年5月20日に名古屋地裁刑事第2部(藤本忠雄裁判長)でOの単独犯と認定され、求刑通り死刑判決を受けた[232]。1975年4月21日、名古屋高裁刑事第1部(平野清裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡されている[234]。 1978年4月17日に最高裁第一小法廷(岸盛一裁判長)で上告棄却の判決を受け[235]、同年5月4日付で死刑が確定。 1985年5月31日に名古屋拘置所で死刑執行(53歳没)[236][237]。同日は平沢貞通(帝銀事件の死刑確定者)の人身保護請求が棄却された日(同月30日付)の翌日であり、法務省の死刑制度存置の姿勢が揺るぎないものであることを内部に示すための死刑執行であると評されている[238]。
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松井田町2女性殺害事件 (N)[239] |
1978年7月12日 |
1968年9月9日 1971年3月11日 |
1930年(昭和5年)10月3日生まれ(1. の事件当時37歳)。 過去に詐欺1回・強盗および窃盗1回の前科あり。強盗および窃盗の罪で服役後、1967年12月に仮出所した。事件当時は群馬県碓氷郡松井田町上増田(現:安中市松井田町上増田)で農業を営んでいたが[243]、以下の2事件(強盗殺人・死体遺棄・死体損壊)を起こしたほか、群馬県(安中市・高崎市)および埼玉県熊谷市で、1971年7月から1972年1月までの間に詐欺4件(被害額41万円)を犯した[243]。
- 仮釈放中の1968年9月9日、前刑(窃盗)の被害者である44歳女性宅を訪れ謝罪したところ、女性から罵られ、相手にされなかったことに逆上。当時金銭に窮していたこともあって、仕返しを兼ねて女性宅に押し入り、女性の腹を拳で殴るなどの暴行を加えたが、激しく抵抗されたために持っていた手拭いで絞殺。女性のがま口(現金18,000円入り)1個を奪い、また事件の発覚を恐れたことから同日22時ごろには女性の遺体を約1.3 km離れた自分の畑に運び、翌10日夜に埋めた[243]。
- 1. から約2年6か月後の1971年3月11日に発生。服役中に習得したミシンの技能を生かして生計を立てようとしたが、その資金の金策に苦慮していたところ、偶然付近で土地を売って1,000万円以上の大金を得た者がいる旨の話を聞き、その人物から金を奪おうと企てた。事件当日にその人物の家を下見し、翌12日深夜に覆面をして侵入したところ、留守番をしていた女性(当時48歳)と鉢合わせしたため、女性を手および細紐で絞殺して現金28,400円、定期預金証書4通などを強取した。さらに翌13日0時ごろ、死体を山林に運び出して放置し、同日22時30分ごろには死体を運びやすくするため、のこぎりで死体の両足を切断し、15日までに自分の畑に埋めて遺棄した[243]。
その犯行は大久保事件よりも残酷と言われた[246]。捜査段階では犯行を認めていたが、第一審の初公判以降、捜査官から拷問を受けて自白したとして、2件の殺人について無罪を主張した[239]。1974年(昭和49年)7月26日、前橋地裁高崎支部(野口仲治裁判長)はNの自白には任意性・信用性があり、一方でNの主張するアリバイは証拠がなく成立しないと認定、死刑判決を言い渡した[243]。当時、同地裁支部では二十数年ぶりの死刑判決だった[243]。 Nは判決を不服として控訴したが[243]、1975年(昭和50年)10月8日に東京高裁第9刑事部(矢部孝裁判長)で控訴棄却判決を言い渡された[247]。 1978年6月22日に最高裁第一小法廷(団藤重光裁判長)で上告棄却判決を言い渡され、死刑が確定[239]。1984年10月30日[注 19]に東京拘置所で死刑執行(54歳没)。
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1979年
1979年(昭和54年)に死刑判決が確定した死刑確定者は4人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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大分・福岡2女性連続殺人事件 (A) |
1979年1月5日 |
1977年2月28日[250] 1977年3月8日[250] |
1945年(昭和20年)11月3日生まれ(事件当時31歳)。大分県大分市八幡出身で、東京都板橋区で強盗致傷事件を起こして懲役8年に処されるなど前科・前歴が4回あった[254]。 1973年2月、大分県別府市北浜の大分交通バスターミナルや、後の殺人事件の被害者である女性X宅を荒らし、現金86000円などを奪ったとして別府簡易裁判所で懲役2年6月の懲役刑を受け、小倉刑務所に服役したが、1977年1月に仮釈放され、それから約1か月で殺人事件を起こした[254]。 1977年2月28日23時30分ごろ、大分県別府市北浜一丁目の飲食店「吉四六」で酒を飲んでいた際に犯行を決意し、経営者の女性X(当時57歳)に包丁を突きつけて脅したが、騒がれたため両手で首を絞め、ぐったりしたところを乱暴し[254]、近くにあった電気炊飯器のコードを首に巻き付けて殺害、財布の中から現金19200円を奪った[250]。Aは同店を客として訪れ、他の客が帰った後で犯行におよんでいた[250]。この犯行後に福岡県福岡市へ行き、同年3月8日22時30分ごろ、福岡市中央区春吉二丁目のホステス(当時33歳)宅へ侵入し[254]、翌9日3時ごろ[注 20]、帰宅したホステスを部屋で待ち伏せて脅し、電気毛布のコードで絞殺、ハンドバッグの中から現金15000円を奪った[250]。また3月4日22時ごろ、福岡市博多区の日本社会党福岡県本部に侵入して現金やジャンパーなど61500円相当を盗むなど、3月2日から4月17日までの間に福岡県内で52回の盗みを行い、現金839000円や貴金属など155点(556000円相当)を盗んだ[254]。 強盗強姦・強盗殺人・窃盗・住居侵入の罪に問われ、1978年9月18日に大分地裁(永松昭次郎裁判長)で死刑判決を言い渡された[254][250][256]。弁護人はAが犯行時、心神耗弱状態だった旨や、Xへの殺意はなかった旨を主張していたが、大分地裁は精神鑑定結果などからAは犯行時正常だったと認め、後者の主張についても退けた[254]。なお大分地裁における死刑判決は、別府市で銀行の集金人を殺害して所持金を奪い、死体に錘をつけて別府湾に沈めた「死体なき殺人事件」の犯人に対し、1958年9月に言い渡されて以来、20年ぶりのことだった[254]。 控訴取り下げにより、1979年1月5日付で死刑が確定。 1985年7月25日に福岡拘置支所[注 11]で死刑執行[236](39歳没)。
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古谷惣吉連続殺人事件(古谷惣吉) |
1979年1月29日 |
1965年 (10月30日ごろ - 12月12日) |
1914年(大正3年)2月16日生まれ(事件当時51歳)。警察庁広域重要指定105号事件[259](8人殺害で起訴)。 1951年に福岡県で2人を殺害して強盗殺人罪で懲役10年に処された前科があり(参照:福岡連続強盗殺人事件)[260]、1964年11月9日に熊本刑務所を仮出所して以降もなお定職に就かず、金銭に窮した末に強盗目的で犯行におよんだ。 1971年4月1日に神戸地裁第二刑事部(中川幹郎裁判長)で死刑判決を受け[263]、1974年12月13日に大阪高裁第5刑事部(本間末吉裁判長)で控訴棄却判決を受けた[265]。 1978年11月28日に最高裁第三小法廷(高辻正己裁判長)で上告棄却判決を受け[266]、翌1979年1月26日付で同小法廷から判決訂正申立棄却決定を[事件番号:昭和53年(み)7号]を受け[267]、同月29日付で死刑が確定。死刑確定後の1982年12月2日、収監先の大阪拘置所で下記Oら死刑囚2人を襲撃する事件を起こしたが、「仮に同事件で起訴されれば古谷は判決が確定するまで死刑執行が見送られる一方、かえって自分たちの死刑執行順位が繰り上がることになる」と恐れた被害者2人が立件を望まなかったため、起訴されなかった。 1985年5月31日に大阪拘置所で死刑執行(71歳没)[236][259]。死刑執行当時の年齢(71歳3か月)は当時、戦後最高裁とされていたが、2006年に死刑を執行された秋山芳光(当時77歳)と、今市4人殺傷事件の藤波芳夫(当時75歳)[271]がこれを更新している。
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芦屋の人妻一家殺傷事件 (O) |
1979年5月31日 |
1976年12月24日[273] |
1943年(昭和18年)10月12日生まれ(事件当時33歳)。 兵庫県芦屋市でタクシー運転手として働いていた1976年、交際していた喫茶店経営者の女性(当時33歳)から冷たくされたことを逆恨みし、彼女の長男(当時8歳)を人質にして手切れ金を奪おうと計画[273]。1976年12月24日8時ごろ、女性宅に上がり込んだところ、1人で留守番していた長男に騒がれたため、タオルで首を絞めて殺害[273]。その後、タンスから現金33万円を盗み、正午近くまで女性の帰宅を待っていたが、たまたま帰宅した夫(当時54歳)に110番通報されそうになったため、文化包丁で刺殺した[273]。 殺人・同未遂、強盗殺人、窃盗の罪に問われたが、神戸地裁尼崎支部は「殺意は偶発的で、責任の一端は相手の女性にもある」として[273]、1977年(昭和52年)3月30日、Oに無期懲役判決を言い渡した。しかし検察官が控訴したところ、同年10月18日に大阪高裁第7刑事部は死刑判決(破棄自判)を言い渡した。Oは1979年4月17日に最高裁第三小法廷(高辻正己裁判長)で上告棄却の判決を受け[273]、同月31日付で死刑が確定。 死刑確定後の1982年12月2日に収監先・大阪拘置所内で、別の死刑囚1人とともに古谷惣吉に襲撃された。1987年9月30日に大阪拘置所で死刑執行[277](43歳没)。
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高森の一家4人殺傷事件 (K)[278] |
1979年7月30日 |
1970年7月4日[279] |
1927年(昭和2年)2月12日生まれ(事件当時43歳)。長崎県平戸市出身[282]。 1953年4月に強盗殺人・強盗・窃盗の罪を犯し[注 21]、1954年1月30日付で無期懲役判決が確定[注 22]。熊本刑務所に服役していたが、1968年6月4日に仮釈放された。その後、熊本県熊本市内で労務者として働いているうちに妻となる女性と知り合い[282]、同年10月に結婚したが[279]、Kの万引きなどの素行が収まらず[282]、2年後に妻が家出し[279]、女性の姉の夫(義兄)が間に立って離婚問題が進んでいた[282]。その原因を妻の姉(義姉)夫婦が離婚させようとしているためだと誤解したことから[279]、1970年7月4日21時15分ごろ[278]、熊本県阿蘇郡高森町高森1246番地(座標)[注 23][279]にあった妻の実家である熊本地方法務局高森出張所を訪れ、法務局舎住宅の裏口から侵入し、義姉(事件当時36歳[282]、第一審判決当時48歳[278])を紐で縛ろうとしたが、騒がれたため[282]、隠し持っていた刃渡り1 cmの出刃包丁で刺して4か月の重傷を負わせた[278]。そして彼女の夫であり、同所長であった義兄(事件当時39歳)の胸や腹などを刺して即死させ、また彼ら夫婦の息子2人(いずれも第一審判決当時、長男は16歳、次男は12歳)も刺して10日間ないし3週間の怪我を負わせた[278]。この犯行の7時間後の5日4時15分には同町横町の納屋に放火して木造2階建て約3000平方メートルを全焼させ、翌6日8時2分、熊本市東町の立ち回り先で熊本北署員に緊急逮捕された[278]。Kは動機について、自身の誠意を認めてもらえずに妻と別れさせられそうになったため、飲酒して話し合いに行ったが、こじれた末に逆上して犯行におよんだと自供した[282]。公判中の1972年1月19日には、拘置先の熊本刑務所京町拘置支所の房内で、主任看守(当時53歳)の顔面を千枚通しの柄で殴りつけ、全治1週間の怪我を負わせる事件も起こしている。 殺人、同未遂、非現住建造物等放火、傷害の罪に問われ、1972年10月26日に熊本地裁刑事第2部(二神勇雄裁判長)で死刑判決を言い渡された[278]。1977年7月27日、福岡高裁第2刑事部で控訴棄却の判決を受けた。 1979年7月10日に最高裁第三小法廷(江里口清雄裁判長)で上告棄却の判決を受け[282][279]、同月30日付で死刑が確定。 1989年11月10日に福岡拘置支所[注 11]で死刑執行(62歳没)[290][291]。これ以降、日本では1993年3月まで3年4か月間にわたり死刑執行が行われなかった[291]。
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脚注
注釈
- ^ 殉職後、警部補に特進[21]。
- ^ 平沢貞通は1955年5月7日付で死刑が確定したが、死刑を執行されぬまま、1987年5月10日(死刑確定から32年後)に肺炎のため、拘置先の八王子医療刑務所で死亡した(95歳没)[44]。
- ^ 彼女はUの愛人だった[46]。
- ^ 3か月[80]。
- ^ 当時の名古屋高裁刑事第1部の合議体は、裁判長の上田孝造と、斎藤寿・藤本忠雄の両陪席裁判官で構成されていた[88]。
- ^ 現:岩手県一関市。
- ^ 「夜須、仲原農協強盗事件」[131]「夜須、仲原農協事件」[132]とも呼称される。
- ^ 男性は当時、80万円の借金の返済に困っていた[175]。
- ^ 名護市呉我地原とする報道もある[184][185]。現場は広いパイン畑の真ん中にあった木造住宅で[184]、負傷した義父は畑の管理人だった[185]。
- ^ 沖縄の日本復帰後、那覇地裁で最初に言い渡された死刑判決は、1972年10月31日に刑事第2部(大山栄太郎裁判長)で宣告された判決である[192]。同事件の被告人である那覇市在住の男(事件当時31歳)は1971年6月21日、借金返済を免れるため、結婚を前提に交際していたコザ市(現:沖縄市)の女性(当時29歳)をナイフで滅多刺しにして殺害したとして[192]、沖縄の刑法による死刑を言い渡された。しかし、控訴審(福岡高裁那覇支部)では1977年2月14日に原判決を破棄され、沖縄の刑法による無期懲役とする判決を言い渡され、確定している。それ以前(アメリカ統治時代)には計5人が死刑を言い渡されており、うち2人は琉球上訴裁判所で死刑が確定したが、いずれも弁務官の恩赦で無期懲役に減刑されており、死刑執行まで至った者は1人もいない[192]。
- ^ a b c 福岡拘置所はかつて、福岡刑務所の下部機関[200](福岡刑務所福岡拘置支所)だった[201]が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し、独立機関の福岡拘置所になった[200]。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した[201]。
- ^ 大分県速見郡日出町[204]ないし別府市生まれだが、6歳のころ(1951年夏ごろ)に父親からの虐待に耐えかねて母とともに家を出、親戚や担任教師の家(佐賀市や熊本県天草郡など)に預けられ、佐賀市内の小中学校を卒業した。
- ^ 脅迫1回、横領・傷害等(2回)、強盗・同未遂等(1回)の前科あり。
- ^ 1928年(昭和3年)12月3日生まれ。
- ^ 1941年(昭和16年)5月9日生まれ。
- ^ 2件目の殺人の直後(6月18日未明まで)、小倉北区中津口一丁目のホテルに潜伏していたところ、ホテル従業員が警察に通報したため、小倉北警察署(福岡県警)などの警察官たちに取り囲まれ、説得された。このため逮捕を免れ、あるいは遅延させる目的で警察官を射殺しようとし、小倉北署の警察官2人に相次いで拳銃を発砲したが、防爆盾に阻まれたり、標的を外したりしていずれも未遂に終わった。
- ^ 郵送された書面を福岡高裁が受理した書面は翌8日であり、佐木隆三 (1998) は同日をもって死刑が確定したと述べている[210]。
- ^ 一時は家出少年を自宅に同居させるなどしていたが、同性愛行為の現場を妻に発見されて性癖が露見したり、妻が1962年ごろに胎児を逆子のため死産したことなどから、妻はやがてKとの性交渉を忌避するようになり、1. 事件後の1967年ごろからは関係が途絶していた。
- ^ 10月31日とする文献もある[159]。
- ^ 9時ごろとする文献もある[254]。
- ^ Kの失恋が遠因になった事件ではあったが、何ら関係ない通行中の女性から財布を奪おうとし、抵抗されたことから胸などを所携の折込小刀で突き刺して死亡させた事件である。
- ^ 1953年7月14日に長崎地裁で無期懲役の判決を受け、同年10月19日には福岡高裁で控訴棄却の判決を受けた。1954年1月27日付で、最高裁第二小法廷から上告棄却決定が出ている[285]。
- ^ 現場には熊本地方法務局高森出張所事務室(義兄の職場)と、廊下伝いに棟続きになっていた義兄宅があった。
出典
参考文献
永山判決
- 最高裁判所第二小法廷判決 1983年(昭和58年)7月8日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁、昭和56年(あ)第1505号、『窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』「一・死刑選択の許される基準 二・無期懲役を言い渡した控訴審判決が検察官の上告により量刑不当として破棄された事例」、“一・死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。二・先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。”。 - 永山則夫連続射殺事件(被告人:永山則夫)の上告審判決。後に「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準が明示された。
死刑事件全般関連の文献(判例集など)
死刑事件全般関連の文献(書籍・雑誌)
個別事件関連の文献(加害者・被害者などの手記を含む)
インパクト出版会の書籍(『年報・死刑廃止』シリーズなど)
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