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フランク・キャプラ (英語 : Frank Russell Capra , 1897年 5月18日 - 1991年 9月3日 )は、アメリカ合衆国 の映画監督 。『或る夜の出来事 』『オペラハット 』『我が家の楽園 』と3度アカデミー監督賞 を受賞している。
人物・経歴
生い立ち
イタリア ・シチリア島 ビザックイーノ 出身。ぶどう園を営む家庭に生まれるが、7人兄弟だったため家は貧しく、6歳で家族 と共にロサンゼルス に移住。父はオレンジ畑で働いたが、貧乏ゆえキャプラ自身も幼い頃から新聞の売り子や酒場でバンジョー 弾きとして家計を助ける。
映画界へ
苦学して1918年 にThroop Institute(後のカリフォルニア工科大学 )でエンジニアリングを学び、卒業後に陸軍 に従軍するも、スペイン風邪 にかかり除隊。その後は本のセールスなど詐欺まがいの職業を転々とした後、作家になる為にシナリオ学校に入るが、小説よりも映画に興味がおき、1921年 にインディペンデント系のクリスティ映画社に入社。
監督へ
その後、ポール・ガースン映画社で助監督として主にそれまでアメリカ映画界の主流だった喜劇映画の製作に関わり、キプリング の詩を脚色した1922年 の短編『Fultah Fisher's Boarding House』が事実上の監督デビュー作となる。
その後、ハル・ローチ に招かれて、当時人気だった喜劇『ちびっ子ギャング 』シリーズのギャグ・ライターとして活躍。1925年 にマック・セネット と出会い、喜劇俳優ハリー・ラングドン 主演のコメディで長編監督デビュー。以降はラングドン専属の映画監督となったが、ラングドンが監督にも進出するようになり、あぶれてしまったキャプラは、1928年 に当時、まだマイナーなスタジオだったコロムビア映画 に招かれる。
コロンビアへ
コロムビアではじめて撮った『呑気な商売』の出来に満足した重役のハリー・コーン らと専属契約を結び、以後はコロムビアの職人監督として『サブマリン』、『渦巻く都会 』、『空の王者』、『大飛行船』、『狂乱のアメリカ』など、話題作や大作ドラマに起用される。1929年 にはコロムビア初のトーキー 「The Younger Generation」を手掛け、コロムビア上層部からの期待を担う。
1931年 の『奇跡の処女』を担当した脚本家でのちに盟友となるロバート・リスキン と意気投合し、1933年 、コンビを組んで人情喜劇『一日だけの淑女』を発表、本作はアカデミー作品賞 と監督賞 にノミネートされ、キャプラとリスキンの出世作となるが、アカデミー授賞式の際、キャプラは新調したタキシード を着て出席、プレゼンターの「フランク!」の声で自分が選ばれたと思い、席を立ち上がるキャプラだったが、スポットライトを浴びたのはフランク・ロイド の方で、キャプラは赤っ恥をかいた[1] 。この時、2度と授賞式には出席するものかと思ったという。
1934年 の『或る夜の出来事』はスクリューボール・コメディ でありまたロード・ムービー の元祖としての評価も高く、この年のアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞 、主演女優賞 、脚本賞 と主要部門を制覇、のちにこの記録は『カッコーの巣の上で 』が現れるまで唯一の事例で、キャプラとしては前年になめさせられた苦汁を跳ね返した。ちなみに本作の主役だったクラーク・ゲーブル とクローデット・コルベール はそれぞれMGM とパラマウント映画 の専属スターで、当初は弱小スタジオ製作のこの映画に貸し出されたことに納得がいかなかったという。
これにより、コロムビアは一躍メジャー・スタジオの仲間入りを果たす。キャプラもリスキンとのコンビで快進撃を続け、1936年 にのちにキャプラ映画の常連となるゲイリー・クーパー やジーン・アーサー を起用した『オペラハット』で再び監督賞を獲得、1938年 に再び組んだジーン・アーサーとのちにキャプラ映画を代表する俳優となるジェームズ・スチュワート が初出演した『我が家の楽園』では作品賞と3度目の監督賞を受賞する。この間の1937年 にはキャプラとしては異色の作品である冒険映画『失はれた地平線 』を発表するが大幅にカットされて公開され、ヒットはしたものの莫大な予算を回収するのに5年もかかり、脚本家や製作会社との関係に亀裂が生じた。
アメリカを代表する監督
1935年 から4年間にわたりアカデミー会長を務め、1936年にアカデミー協会 との対立が原因となった俳優や監督の組合が起こした授賞式ボイコット運動に抗して第8回アカデミー賞 を開催させるなど、映画以外での手腕も周りから高く評価される。
1930年代はまだ大恐慌の傷跡が大きく、暗い世相の最中、楽天主義、アメリカン・ドリーム、ユーモア、ヒューマニズムをふんだんに取り入れたキャプラの作品はキャプラスク (Capraesque)と呼ばれ、名実ともにフランク・キャプラは1930年代のアメリカ映画を代表する映画監督となった。1939年 、『我が家の楽園』で名コンビを発揮したジェームズ・スチュワートとジーン・アーサーが再び共演した政治批判も折り込んだ『スミス都へ行く 』を発表、またもや批評面でも興行面でも大成功する。
その後、ワーナー・ブラザース に移籍、1941年 のゲイリー・クーパー主演の『群衆』ではいつものヒューマニズムあふれる内容だけではなく、扇動されやすい大衆の恐ろしさも同時に描いた。1941年 にはそれまでとは打って変わったブラック・コメディ 、「毒薬と老嬢」を撮影(公開は1944年)。
第二次世界大戦
第二次世界大戦 中は軍隊に志願し、アメリカ陸軍 の映画班に所属したキャプラは、ワシントンD.C. に駐在し、日中戦争 を描いた『ザ・バトル・オブ・チャイナ 』を含む「われらは何故戦うのか 」シリーズ (1942~45) といった戦意高揚のプロパガンダ映画を新兵教育のために製作、また兵士の日常を描くギャグアニメーションのシリーズ「Private Snafu 」なども製作。中佐にまで昇進して終戦を迎える。
『素晴らしき哉、人生!』
戦後、戦時中に陸軍の映画班に所属していたジョージ・スティーブンス 、ウィリアム・ワイラー らと共に製作会社リバティ・ピクチャーズを1945年 に創設、自らも再び映画製作を再開して、1946年 にこれまでのキャプラ映画の集大成として『素晴らしき哉、人生! 』を発表するも、興行的に惨敗。1948年 、リバティ・ピクチャーズはパラマウント映画 に吸収され、自分が満を持して発表した『素晴らしき哉、人生!』の失敗で自信を消失して、その作品数は激減する。
晩年
1964年 の短編映画『Rendezvous in Space』を最後に映画界から引退、1971年 には自伝を発表する。しかし、この頃からテレビでクリスマス の時期になるとパブリック・ドメイン となった『素晴らしき哉、人生!』が頻繁に放映され始め、それまでキャプラを知らなかった若い世代から再評価され、今ではクリスマスにこの映画が流れるのは定番となっている。
1991年9月3日、老衰のため死去。94歳没。
監督作品
『或る夜の出来事 』(1934年)
『素晴らしき哉、人生! 』(1946年)
受賞歴
アカデミー賞
受賞
1935年 アカデミー監督賞 :『或る夜の出来事 』
1937年 アカデミー監督賞:『オペラハット 』
1939年 アカデミー監督賞:『我が家の楽園 』
ノミネート
1934年 アカデミー監督賞:『一日だけの淑女 』
1940年 アカデミー監督賞:『スミス都へ行く 』
1947年 アカデミー監督賞:『素晴らしき哉、人生! 』
ゴールデングローブ賞
受賞
1947年 ゴールデングローブ監督賞 :『素晴らしき哉、人生!』
関連文献
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脚注
^ Frank Capra, The Name Above The Title - An Autobiography , 1972. ISBN 978-0306807718 (Paperback 1997)
外部リンク
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