首藤 信彦(すとう のぶひこ、1945年4月5日 - )は、日本の政治家、国際政治学者。
政治団体「共和党」物差(党首)。衆議院議員(3期)、東海大学教授を歴任。NGOインターバンド創設者。専門は国際政治経済学、危機管理、予防外交、テロリズム研究。
息子の首藤天信は立憲民主党所属の神奈川県議会議員。
1945年、関東州大連市に生まれる。東京都立戸山高等学校、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。大学では政府税制調査会で有名な加藤寛のゼミに所属[1]。
1969年、伊藤忠商事に入社し、アルジェリアで石油化学プラントの建設に携わった。退職後に慶應義塾大学大学院経済学研究科大学院へ入学。1975年経済学修士号、1979年博士号を取得し、1980年貿易研修センター助教授[2]。
1983年東海大学政治経済学部助教授[3]。1988年東海大学政治経済学部教授[2]。のち東海大学平和戦略国際研究所教授となる。
在外研究は、1981年米国サンダーバード国際経営大学院客員教授、1989年フランス欧州経営大学院客員教授、1989年-1990年米国ジョンズ・ホプキンズ大学ポール・H・ニッツェ高等国際関係大学院および米国メリーランド大学国際安全保障研究センター研究員[2]など。
その間、CNNデイウォッチキャスター、経済企画庁国民生活審議会議員などを務める。
1992年、世界各地の紛争地域の平和構築、民主化の動きを支援するNGOインターバンドを設立した[4]。
1996年、第41回衆議院議員総選挙に旧民主党公認で神奈川7区から出馬したが、自由民主党の鈴木恒夫らに敗れ、落選した。
2000年、第42回衆議院議員総選挙に再度神奈川7区から出馬し、得票数では次点に終わるも重複立候補していた比例南関東ブロックで復活し初当選。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では小選挙区で鈴木恒夫を破り、再選。
しかし、2005年の第44回衆議院議員総選挙では小選挙区で鈴木に敗れ、比例復活もならず落選した。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、引退する鈴木恒夫に代わって出馬した自民党の鈴木馨祐を破り、4年ぶりに返り咲いた。
2011年、海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員長に就任。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では前回下した鈴木馨祐に敗れ、比例復活もならず落選。
2013年11月、「昨年末の衆院選で敗北し野党となった後、民主党は自公政権の補完勢力となっており癒着している。右傾化する与党への協力が顕著で、結党時の精神と歴史的意義を喪失した」として民主党に離党届を提出[5]。神奈川県連幹事長の滝田孝徳は「公認を求めていながら、公認が難しくなると前言を翻して離党するなど、自らの言動を顧みない行動は大変違和感を持つ」と首藤を批判[6]。同年12月、首藤は民主党神奈川県連に離党を認められたが、「言行不一致について猛烈に反省すべき」との意見を付せられた[6]。
2019年秋に鳩山由紀夫元首相と共著を出版。10月25日には鳩山が新たな政治団体「共和党」の結成を目指す考えを表明し、首藤は新党の物差(党首に相当)に就任する見通しであることが報じられた[7]。
2022年6月、共和党は同年7月の第26回参議院議員通常選挙に首藤を神奈川県選挙区から擁立することを発表した[8]。7月10日の投開票の結果、落選。
2009年10月、江畑謙介の死去に際し、「日本には本当の意味で、軍事専門家などはいない、また出てこないだろう。そのなかで、一応、擬似専門家としての役割を果たしたのが江畑さんだった」「まったく紛争地や実際の戦場に足を運ぶこともなく、兵器という切り口だけで戦争を論じる、日本にしか生まれない特異な軍事評論家だった」と評し、「次第に自民党べったりになってきて、数年まえに会ったときには、自民党のプロパガンダの集会やイベントにも政治家に寄り添って立つようになった」「軍人じゃあるまいし、評論家が皮の防寒服などを着てイベントに並んでいる姿をみて、悲しい思いをした」「かって電話で講演を依頼したとき、ともかく生きていくためには、ひたすら原稿を書かなければならないみたいな理由で断ってきたが、やはり文筆だけでは生活は苦しかったのかもしれない」と自身のブログに掲載した[33]。これに対してはネット上で撤回・謝罪を求める多数の批判的コメントがなされ、ブログのコメント欄が炎上した[34]。
このブログ炎上に関して首藤は、「卑しめているのではなく、この世界の難しさを同情してブログを書きました」と真意を説明する一方で、「この分野に関係ない人が、内容を曲解して書いている」「イラク戦争のときも1日5000件来ましたが、同じような人が同じようなキーワードで書いているのでしょう」と意に介さない旨を述べた。また、軍事評論家の田岡俊次は首藤の江畑評に関して、専門家の立場から、「理科的」な江畑と「社会科的」な首藤のアプローチの違いを指摘し、江畑を擁護する一方、首藤の立場にも理解を示した[34]。
後に首藤はブログにおいて「小生への叱責をされた皆さんは、この分野で研究活動する研究者の苦労はあまりご存知ないと思います。最大の問題は日本の一般大学や研究所で、軍事、戦史、兵器などの専門講座や専任教員のポストを用意しているところはほとんどないことで、『平和学や平和研究があるのに、なぜ戦争論や紛争研究がないのか』と我々も何度も各大学などに呼びかけましたが、なかなか現在でも進展していません」と追記し、江畑の死去に際して行った自身のコメントについて理解を求めた[35]。