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徳島県板野町の板野駅から上板町の鍛冶屋原駅までを結んでいた「鍛冶屋原線」とは異なります。 |
鍛冶屋線(かじやせん)は、かつて兵庫県西脇市の野村駅(現在の西脇市駅)から兵庫県多可郡中町(現在の多可町中区)の鍛冶屋駅までを結んでいた、西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。JR西日本の前身である日本国有鉄道(国鉄)末期に第3次特定地方交通線に指定され、1990年(平成2年)4月1日に全線が廃止された。
概要
加古川線から分岐して西脇市の中心部を通り、田園地帯を北上して多可町の鍛冶屋駅までを結んでいた路線である。戦後の高度経済成長期には地元の特産品である播州織や貨物の輸送で大きな役割を担った。やがてモータリゼーションの進展に伴い乗客が減少するも、市の中心部に近い野村駅 - 西脇駅間に限れば比較的利用者が多く、加古川線から分岐していた4路線(鍛冶屋線・三木線・北条線・高砂線)の中では最も輸送密度が高かった。そのため特定地方交通線第1次廃止対象線区からは除外された。しかし第3次廃止対象線区の選定では除外基準が引き上げられたため、西脇駅以北の乗客の減少や赤字を理由に第3次特定地方交通線として承認され、協議の末に1990年(平成2年)4月1日に全線廃止、バス路線へ転換された[1]。国鉄の特定地方交通線に指定された路線の中で最後に廃止された路線の一つである。
廃止後の線路跡地は自転車道として整備されたり、既存の道の拡幅やバイパス道路に使われたり、市原駅跡や鍛冶屋駅跡が鉄道記念資料館として整備されるなど、有効的な活用が図られている。
路線データ
運行形態
前述の理由から、ほぼ全列車とも加古川線と直通して加古川駅 - 西脇駅間、もしくは加古川駅 - 鍛冶屋駅間で運転され、加古川線の加古川駅 - 野村駅間との一体運行が主体となっていた。そのため、加古川線の野村駅 - 谷川駅間は支線的な運行体系となっていた。また、西脇駅から加古川線の野村駅 - 谷川駅間に直通する列車も設定されていた。
廃止直前時点で、加古川駅 - 鍛冶屋駅間の列車がほぼ1 - 2時間ごとに運転され、その間に加古川駅 - 西脇駅間の列車が1 - 2本運転されていた。全線の所要時間は約23分。
歴史
明治20年代後半から、繰り返しこの地域では鉄道建設の構想があったが、実現していなかった。1910年(明治43年)11月になり、加東郡河合村(現在の小野市)の斯波与七郎が中心となって出願した軽便鉄道の計画が認可を受けて、1911年(明治44年)5月播州鉄道株式会社が設立された[2]。
播州鉄道は順次現在の加古川線にあたる路線の建設を進め、1913年(大正2年)に西脇駅まで開業した。その後の建設工事は遅れていたが、当時の播州鉄道の大株主で、地域の大地主でもあった藤井滋吉が私財を投げ打って建設工事を進めさせた。このため、西脇駅 - 市原駅間の約3.2 kmだけがその先の区間より2年先に開業している。これを目にしたほかの地区の住民も慌てて土地の提供や資金の拠出に乗り出し、残りの鍛冶屋までの線路も1923年(大正12年)5月6日に開業を迎えることになった[2]。
この先路線は多可郡加美町(現在の多可町加美区)まで延伸される計画であったが、第一次大戦後の不況で経営が悪化し、延伸計画は断念された。播州鉄道の路線は播丹鉄道に承継され、福知山線に接続する野村駅 - 谷川駅間も同社の手によって開業された。この区間の開業により、鍛冶屋線の区間は加古川線の支線となった[2]。
鍛冶屋では金比羅大祭という祭りが毎年開催されており、この祭りの時期に合わせて臨時列車が増発され、最盛期の1938年(昭和13年)には30分おきに列車が運行されていた記録があるという。貨物輸送も、それまで馬車で運ばれていた原糸が鉄道輸送に切り替えられ、鍛冶屋の地場産業である播州織を支えていた。また加美町から出荷される杉、檜も昭和10年代には年間4万トンほどが鍛冶屋駅から発送されていた。酒造り用の米である山田錦の発送も行われ、中村町駅や鍛冶屋駅にはそのための引き込み線も用意されていた[2]。
第二次大戦中に戦時買収され、野村駅 - 鍛冶屋駅間が国鉄鍛冶屋線となった。
昭和40年代頃からモータリゼーションの進展と、地場産業の変化に伴い旅客・貨物輸送量共に落ち込み始めた。昭和52年度 - 54年度の輸送密度は2039人/日だったのが56年度1600人/日、59年度1400人/日と落ち込み、営業係数は1026となっていた[2]。
沿線では、存続運動の拠点としてミニ独立国「カナソ・ハイニノ国」の建設が1984年(昭和59年)11月に宣言された。国名は鍛冶屋側から駅名の頭文字を順に並べたものである。様々な利用促進イベントを実施して注目を集めたが、廃線を止めることはできなかった[3][2]。
1986年(昭和61年)に特定地方交通線第3次廃止対象線区として申請され翌年承認。1987年(昭和62年)4月にJR西日本に承継された。同年6月、専門委員会が設置されて第三セクターへの転換、バス転換、野村駅 - 西脇駅間のみの存続[4]などが検討された。当初は第三セクター化が有力視されていたが、先に第三セクター化された北条鉄道・三木鉄道がいずれも転換当初から経営難に直面したため兵庫県が支援に難色を示し、その結果1988年(昭和63年)12月に全線廃止・バス転換に決定され、1990年(平成2年)4月に廃止された[2]。同日に廃止・転換された宮津線・大社線と共に特定地方交通線では最後までJR運営で残った路線であり、各線の廃止・転換をもって特定地方交通線全線の転換が終了した[1]。
年表
駅一覧
駅名・所在地は廃止直前時点のもの。全駅兵庫県に所在。中町は2005年に多可町となった。野村駅は鍛冶屋線が廃止された1990年4月1日に西脇市駅と改称した。
- 線路(全線単線) … ◇:列車交換可能、|:列車交換不可
代替バス
ウイング神姫(旧神姫グリーンバス)の西脇 - 鍛冶屋 - 加美区方面の路線が代替バス路線として位置づけられているが、この路線は西脇市中心部を迂回するため、鍛冶屋線の廃線跡を忠実にトレースしているわけではない。またこのほか、のぎくバス(多可町コミュニティバス)のうち直行路線が鍛冶屋線廃線跡に近いルートを運行する(全便土休日運休)。
廃線跡の現状
野村-西脇間は自転車及び歩行者専用の遊歩道「やすらぎの道」として整備されている。このやすらぎの道は、野村駅付近で住宅街の間を通り抜けた後、盛り土の直線区間に入る。直線区間は線路は撤去されているものの、鍛冶屋線の現役時代に使われていた鉄橋や電柱などが残っている。
西脇駅跡の辺りで遊歩道は終点となり、そこから先は二車線の車道となる。この車道は市原駅跡まで続いている。市原駅跡を通り過ぎると、そのすぐ後の交差点からバイパス道路「日野北バイパス」が続いている。かつてはここは自転車と歩行専用の「星の遊歩道」が通っていたが、2019年11月に拡張工事が行われ、現在の車道となった。グリーンベルトと歩道が整備されているので、サイクリングや散策を行うことも可能である。
羽安駅跡を過ぎると再び車道区間となる。この車道区間の道中に曽我井駅跡と中村町駅跡がある。中町の市民会館「ベルディーホール」を通り過ぎると、そこから終点・鍛冶屋駅跡までは自転車道「ぽっぽの道」(水と風の遊歩道とも)が整備されている。
その他
- 当線全体の一日における最終列車は下り鍛冶屋行きであり、終着後は滞泊せず西脇駅へ回送されていたが、営業最終日の当該上り回送列車は、名残を惜しむ旅客に便宜が図られ、回送列車の終着である西脇駅までの便乗が認められた。
- 2020年に廃止から30年となるのを記念して、2019年から2020年にかけて「JR鍛冶屋線廃線30年メモリアルリレーイベント」が行われた[8]。まず、2019年に多可町の文化会館であるベルディーホールでは、創作劇「カラフル・ワールド―七色の線路」が上演され[9]、往時の鍛冶屋線について描かれた。また、同年11月4日には廃線跡を歩く「鍛冶屋線メモリアルウォーキング」と、羽安駅跡の「星の遊歩道」に建設された日野北バイパスの開通プレイイベントが行われ、羽安駅跡では前述の創作劇などのイベントが行われた[10][11]。
- 西脇駅近くに位置していた玩具店「てんぷる」が2019年5月末に閉店するのに伴い、5月26日に鍛冶屋線をプラレールで復活するイベントが行われた[12]。
脚注
外部リンク
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第1次廃止対象路線 | |
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第2次廃止対象路線 | |
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第3次廃止対象路線 | |
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東北 | |
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関東・甲信越 | |
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北陸・東海 | |
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近畿 | |
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中国・四国 | |
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九州 | |
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路線名称は指定当時。この取り組みにより廃止された路線には、「*」を付した。
- ^ 現在の只見線の一部を含む。
- ^ 旅客営業のみ廃止し、路線自体は日豊本線の貨物支線として存続したのち1989年廃止。
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支社・管理部 |
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路線 |
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車両基地・車両工場 |
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乗務員区所 |
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鉄道部 |
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運転指令所 |
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- ※廃止路線・組織には近畿統括本部発足・統合以前のものを含む。
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