越智 大祐
![]() 練習中の越智 |
基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
愛媛県今治市 |
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生年月日 |
(1983-06-30) 1983年6月30日(41歳) |
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身長 体重 |
185 cm 88 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
2005年 大学生・社会人ドラフト4巡目 |
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初出場 |
2008年3月28日 |
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最終出場 |
2012年4月18日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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越智 大祐(おち だいすけ、1983年6月30日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
プロ入り前
今治市立菊間中学校では捕手だったが、新田高等学校時代に正捕手争いに敗れ、2年夏までは控え捕手。内野手を経て投手に転向した。卒業後は早稲田大学人間科学部へ進学。早稲田では和田毅や清水大輔に次ぐ投手として、1年春から2年秋まで無傷の11連勝、早大野球部史上初の「東京六大学リーグ4連覇」に貢献した。3年次には一時調子を落としたがすぐに復調し、秋には防御率1.01で最優秀防御率賞を受賞。大学時代の通算成績は43試合登板し15勝5敗、防御率2.61。投球回数(183回)を上回る205三振を奪った。
2005年の大学・社会人ドラフトで読売ジャイアンツから4巡目指名を受けて入団。
巨人時代
2006年、2007年と一軍登板なし。2007年から背番号が35から62に変更された。
2008年3月28日の対東京ヤクルトスワローズ戦でリリーフとして公式戦初登板。同年7月25日の同カードで初勝利を挙げる。シーズン途中からは山口鉄也と共に中継ぎの柱を担った。チーム最多の68試合に登板した一方で、セントラル・リーグ最多の15暴投を記録した。11月9日、埼玉西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では1点リードの7回から登板。ところが、8回に片岡易之への死球を機に同点を許すと、連続四球でピンチを広げ平尾博嗣に決勝適時打を打たれた。結果的にチームは日本一を逃したが、シーズンオフには年俸も大幅に上がり、背番号も22に変更された。
2009年、開幕前、越智とともに前年に飛躍した山口とのコンビ名がスポーツ報知で募集され、応募総数1290通の中から越智と山口が選んだ「風神雷神」に決定した[1]。越智は「雷電フォーク」で打者をねじ伏せる「雷神」を目指すという意気込みをみせた。同年4月30日にはマーク・クルーンの代役として抑えを務め、プロ初セーブを記録。防御率は前年の2.40から3.30と1点近く悪化したが、1年を通して山口と共に勝利の方程式として活躍を見せた。8月2日の阪神タイガース戦では山口が迎えたピンチを越智が抑えるという場面もあり、試合後には山口と自分は「2人で1つ」とコメントした[2]。
2010年、59試合に登板し、3年連続50試合以上登板を達成。久保裕也、山口鉄也らとともに勝ちパターンにおける中継ぎを務め、シーズン終盤には不調だったクルーンの代わりに抑えも務める。防御率は前年と同水準の3.20だったが、投球回は56.1と減少。シーズン終了後、前年比500万円減の8000万円で契約更改する。オフには一般女性との入籍を発表[3]。翌年4月16日には長女が誕生する。
2011年、開幕一軍を逃す[4]。4月下旬に負傷した山口に代わり一軍昇格したが[5]、8月8日に再度の一軍登録抹消。8月26日に一軍に復帰したものの、登板数は42試合に留まった。シーズン終了後は復活への期待をこめて秋季キャンプの投手陣リーダーに指名された[6]。
2012年は開幕を一軍で迎えるが、4月4日の広島戦後に登板後に両足の違和感を訴え、19日に登録抹消。二軍で調整を続けていたが症状は消えず、病院で診察を受けた結果、特定疾患指定の難病である黄色靭帯骨化症であることが判明[7]。医師からは「野球を続ければ、2年後には車いすの生活になる」と告げられた[8][9]。手術を受けることになり、シーズン中の復帰は絶望的となった[10]。6月28日に手術は無事成功し[11]、7月からリハビリを開始[12]。8月下旬には近距離からの投球を行った[13]。9月末にはブルペンにも入り、12月の契約更改の時点で本人いわく「8割の力で投げられる」程度にまで回復した[14]。
2013年、一軍登板はなかったが、10月に宮崎で行われたフェニックスリーグのメンバーにも選ばれる。2014年から背番号が67となり、同年の一軍登板はなく、10月1日に球団から戦力外通告を受け、現役引退する[15]。
引退後は、2015年頃、東京麻布で焼き肉店を営んでいたが、現在は閉店している[要出典]。
選手としての特徴
150km/h前後の直球と「雷電フォーク」と呼ばれる落差が大きいフォークボールを軸に三振を奪う投球スタイル。投げる際に前足を大きく前に踏み込む2段モーション気味のフォームを使用する[要出典]。速球は最速155km/hを記録し[16]、フォークも140km/hを超える。また、ややシュート気味に変化するツーシームとスライダーやカーブも時折り投げる[要出典]。その一方で暴投も多く、2008年には中継ぎ投手ながら15暴投を記録している。これは、リリーフのみで登板した投手としてはシーズン最多記録である[17]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
2008
|
巨人
|
68 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
0 |
10 |
.500 |
297 |
71.1 |
54 |
4 |
29 |
2 |
5 |
101 |
15 |
0 |
19 |
19 |
2.40 |
1.16
|
2009
|
66 |
0 |
0 |
0 |
0 |
8 |
3 |
10 |
24 |
.727 |
294 |
71.0 |
63 |
6 |
22 |
2 |
2 |
70 |
5 |
0 |
28 |
26 |
3.30 |
1.20
|
2010
|
59 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
4 |
5 |
21 |
.500 |
239 |
56.1 |
52 |
6 |
23 |
1 |
2 |
49 |
3 |
0 |
22 |
20 |
3.20 |
1.33
|
2011
|
42 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
2 |
0 |
11 |
.600 |
163 |
39.1 |
27 |
1 |
18 |
0 |
2 |
43 |
1 |
0 |
14 |
12 |
2.75 |
1.14
|
2012
|
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
24 |
4.0 |
9 |
2 |
4 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
5 |
5 |
11.25 |
3.25
|
通算:5年
|
240 |
0 |
0 |
0 |
0 |
18 |
13 |
15 |
66 |
.581 |
1017 |
242.0 |
205 |
19 |
96 |
6 |
11 |
263 |
24 |
0 |
88 |
82 |
3.05 |
1.24
|
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
投手
|
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率
|
2008
|
巨人
|
68 |
5 |
6 |
0 |
0 |
1.000
|
2009
|
66 |
3 |
7 |
0 |
0 |
1.000
|
2010
|
59 |
2 |
5 |
2 |
1 |
.778
|
2011
|
42 |
0 |
7 |
0 |
1 |
1.000
|
2012
|
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
----
|
通算
|
240 |
10 |
25 |
2 |
2 |
.946
|
表彰
記録
- 投手記録
- 打撃記録
- 初安打・初打点:2010年4月10日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、8回裏に鈴木義広から中越2点適時二塁打
- その他の記録
背番号
- 35(2006年)
- 62(2007年 - 2008年)
- 22(2009年 - 2013年)
- 67(2014年)
脚注
関連項目
外部リンク