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赤川 克紀(あかがわ かつき、1990年7月31日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)。 左投左打。東京ヤクルトスワローズ時代の愛称は「ジャイアン」[1]。
小学2年生の時にソフトボールを始め、中学時代は軟式野球部に所属[1]。宮崎県立宮崎商業高等学校入学後、1年秋からエースとなり、秋季県大会では30イニング連続無失点、46奪三振と驚異的な記録を残し、九州大会に駒を進めた。3年の宮崎大会準決勝では延長15回193球を投げ、チームの39年ぶり4回目の甲子園出場に貢献。甲子園初戦の城北高校戦において8回1失点と好投し、チームに44年ぶりの勝利に貢献。2回戦の鹿児島実業高校戦で敗退したが、延長12回を一人で投げ抜き、全日本高校選抜に選出された。
2008年度のドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから1位指名を受け入団。
2009年、9月9日の広島東洋カープ戦で、6点差を追う9回に3番手としてプロ入り初登板。打者4人に対して本塁打を含む3安打1四球2暴投3失点と1死も取れずに降板した。
2010年、台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれた。
2011年、8月18日の横浜ベイスターズ戦では5回無失点でプロ初勝利を挙げた[2]。9月時点でチームが首位に立ち中日ドラゴンズとの優勝争いを繰り広げるなか、9月26日の中日戦では9回二死から1失点したものの堂々のプロ初の完投勝利を飾るなど[1]、8月からの先発起用ながら6勝3敗という成績を残した。クライマックスシリーズにも登板し、ファーストステージの第3戦、11月1日の対読売ジャイアンツ戦では6回2/3を無失点でチームを勝利に導いた[3]。
2012年は、監督推薦により自身初のオールスターゲーム選出を決め、第3戦の6回から登板。3イニングを無安打に抑え、SKYACTIV TECHNOLOGY賞(3試合を通じて最もファンの印象に残った選手)を受賞した。シーズンでは先発ローテーション投手として8勝9敗の成績を残し、プロ入り初の規定投球回到達を果たした。
2013年は、開幕ローテーションに抜擢されたが、成績不振で5月に二軍落ち。7月に一軍へ再昇格を果たしたものの、7月28日の広島戦では5回までに4点リードしながら初勝利を逃し、この試合を最後に再び二軍へ落ちた。その後は一軍へ再昇格することなくシーズンを終え、最後まで勝利を挙げられず防御率も6.98に終わった。
2014年は、先発での登板は1試合しかなく、中継ぎで起用されたが全体では14試合の登板に終わり、防御率も7点台の成績で終わった。
2015年はイースタンで25試合で1勝3敗、防御率7.16という成績に終わり、プロ入り後初めて一軍公式戦への登板機会がなかった。10月2日に球団から戦力外通告を受け、10月14日に現役を引退することが報じられた[4]。
引退表明の際に、「野球にはもう携わらない」と明言したが、地元の先輩であるamadanaの社長で東京バンバータの監督でもある熊本浩志の紹介で、2015年11月から東京都内の建築資材関係企業・株式会社ナスタ[5][6]に勤務しながら[7]、軟式野球のクラブチーム「東京バンバータ」(現:東京ヴェルディ・バンバータ)に加わった[8]。
肘の使い方が上手く、球持ちのよさに非凡さがあると2012年のプロ野球名鑑では評されている[9]。2011年時点で平均球速は、約137km/h[10]。動くボールを武器に打たせて取るピッチングを持ち味とした[1][11]。
のんびりした気質でマウンド上でも臆する事なく、走者を背負ったピンチの場面でも粘り強さを発揮した[1][12]。
ヤクルトでは、同じく高卒でドラフト1位指名で入団した由規、村中恭兵、増渕竜義らとともにドラ一四兄弟と呼ばれた(赤川が末っ子)[13]。