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西岡 清吉(にしおか せいきち、1937年5月18日 - 2016年8月10日)は、高知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
城東高校では同期のエース岡村公温(明大-拓銀)を擁し、三塁手として1955年春夏の甲子園に出場。春の選抜では2回戦(初戦)で高田高に敗れる[1]。夏の選手権は準々決勝に進むが、この大会に優勝した四日市高の高橋正勝に0-1で完封負け[2]。同年の神奈川国体にも出場するが、1回戦でエース前岡勤也を擁する新宮高に5回日没コールドで惜敗した。他の高校同期に捕手の土居章助がいた。同年に日本選抜チーム初のハワイ遠征(日本:10試合7勝3敗) で西岡は遊撃手として派遣されプロ野球界からも嘱望された。
大阪タイガースに内定するも、条件面で国鉄に惹かれ土居とともに1956年に国鉄スワローズへ入団。同年は遊撃手として2試合に先発出場。1958年には一軍に定着、8月には三塁手の定位置を獲得する。1959年は渡辺礼次郎らと併用され67試合に先発、土居章助と三遊間を組んだ。しかし1960年には箱田淳が三塁手に回り出場機会が減少。1961年に徳武定之が入団し三塁手に定着すると、その後は代打や控え内野手として起用される。1962年の代打での打率は.349の好成績だった。1965年には二塁手として杉本公孝と併用され47試合に先発出場。しかし同年7月には岡嶋博治が移籍入団し、控えに回る。1966年にはイースタン・リーグで本塁打王を獲得するものの一軍では無安打に終わる。翌1967年には一軍での試合出場もなく、同年限りで引退した。1959年9月8日の巨人戦では木戸美摸から、1960年8月30日の中日ドラゴンズ戦では板東英二から満塁本塁打を放っている[3]。
引退後は長きにわたりスコアラーやスカウトに従事し、野村克也をはじめ歴代監督を支えた。スカウトした選手には、原辰徳と「西の杉村、東の原」と並び称され青木宣親、内川聖一、山田哲人の指導で知られる、同郷のスワローズ打撃コーチ杉村繁がいる。
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