■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート
西井 哲夫(にしい てつお、1951年7月7日 - )は、宮崎県延岡市出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。右投右打。
宮崎商業高校ではエースとして活躍。1968年秋季九州大会に進出し4試合連続完封。決勝では岩崎清隆、今久留主邦明のバッテリーを擁する博多工を降し、翌1969年春の選抜への出場を決める。大会では1回戦で銚子商に完封負け[1]。その後は春の九州大会で優勝、夏は県大会決勝で延岡商の柳田豊に投げ勝ち、南九州大会に進む。ここでも首里高を降し、夏の選手権に出場を果たす。しかし同じく1回戦で明星高に0-1で惜敗[2]。
同年秋のプロ野球ドラフト会議でアトムズに2位指名され入団。
1970年は新人ながら一軍に上がり、8月29日には大洋の高卒新人間柴富裕と投げ合い、初先発初完封勝利を記録する。
1972年には9勝を記録。
1974年には11勝をあげ、松岡弘、浅野啓司に次ぐ先発投手として、チームのAクラス入りに貢献した。
1976年には調子を崩し低迷、9月に先発の座を降りる。
1977年は抑えとして起用。
1978年には中継ぎとしてリーグ優勝に貢献。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでも3試合にリリーフとして登板、第4戦では勝利投手となり日本一に力を添えた。その後も抑えや中継ぎを中心に長く活躍する。
1982年オフに、倉持明との交換トレードでロッテオリオンズに移籍。
1984年には6勝8セーブをあげた。
1986年10月に戦力外通告を受ける。
1987年、中日ドラゴンズにテストで入団[3]。しかしここでは1勝もできず、同年オフに現役を引退した。
いわゆる剛速球投手ではないが、右の本格派で制球力に優れ、速球、カーブ、シュート、スライダー等をバランス良く投げ分けて打者を抑えた。
引退後は会社員となり、定年退職後は地元で野球教室を開き[4]、母校のOB会長も務めた。また野球技術についての書籍に監修者として名を連ねている。
出版元は、いずれも舵社。