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緋本 祥男(ひもと さちお、1935年3月6日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手、一塁手。1954年から1963年までの登録名は、緋本 祥好。
県立西宮高校を卒業後、1954年に広島カープへ入団[1]。入団後最初の2年間は二軍にいたが、1955年の秋に来日したメジャーリーガー、エルストン・ハワード(ニューヨーク・ヤンキース)の極端なクローズドスタンスからヒントを得る。さらに川上哲治の、「部屋の中にろうそくを立て、振ったバットの風力で火を消す」という練習法も覚え、初の一軍昇格を目指す[1]。
1957年には開幕から右翼手、七番打者に抜擢される。同年は主に中堅手として101試合に先発出場、四番打者としても12試合に起用される。規定打席(16位、打率.241)にも達し、チーム最多の15本塁打を放つ。福山で行われた試合ではバックスクリーン越えの本塁打を打っている[1]。3年目でのシーズン二桁本塁打初到達は高卒選手としては球団史上最速だった(2021年現在も江藤智、前田智徳、堂林翔太、林晃汰と並びタイ記録)。
しかし、この年の秋季練習で内角球を避けきれず左手首に当てて骨折してしまい、内角球に対して腰が引ける一因となる[1]。さらに翌1957年からは新設された広島市民球場でのナイトゲームが増え、元々視力が0.4と悪かった緋本にとっては痛手となった[1]。同年は主に左翼手、五番打者として打率.236(リーグ18位)を記録したが、4本塁打、25打点と前年を下回る成績に終わる[1]。
1958年は大和田明の移籍入団、森永勝治の新入団もあって、出場機会が急減した。
1961年に東映フライヤーズへ移籍。開幕から一塁手として起用されるが、打撃面で低迷し山本八郎にポジションを奪われる。
1962年には初のリーグ優勝を経験。阪神との日本シリーズでは6試合に守備固め、代走として出場するが、シリーズ通算2打数無安打に終わる。地味ではあるがチーム初の日本一に貢献した。
1964年オフに引退[1]。
引退後は、ダイエーのグループ企業である大栄商事(大阪府吹田市)に勤務(1969年~)。1988年から1992年まで、同社の代表取締役を務めた[1]。現在は中部衛生検査センター相談役[2]。
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