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漆畑 勝久(うるしばた かつひさ、1939年10月12日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
清水東高校では1957年春季中部大会決勝に進み、掛川西高を降し優勝を飾る。同年の夏の甲子園に四番打者、遊撃手として出場[1]。2回戦(初戦)で、この大会に準優勝する法政二高の延藤謙吉(三重交通)、青木武文(駒大)の継投の前に完封を喫する。1年後輩のチームメートに捕手の鈴木悳夫がいた。
1958年に明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは後藤晃吾、八木孝両投手を擁し、1961年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。大型遊撃手としてプロの注目を集める[1]。リーグ通算89試合出場、293打数65安打、打率.222、3本塁打、42打点。ベストナイン(遊撃手)1回選出。
1962年に広島カープへ入団[1]。1年目は正遊撃手である古葉竹識の壁を破れず[1]6試合の先発にとどまる。1963年には一軍に定着、二塁手も兼ね69試合に出場するが打率は低迷。1965年には古葉が二塁手に回り、その後継として開幕から七番打者として起用される。同年は遊撃手の定位置を獲得し自己最高の74試合に先発出場、打率.230を記録した。翌1966年には阿南準郎、今津光男にポジションを譲るが、その後も二塁手、三塁手、遊撃手をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍した。1969年には出場機会が減少、同年限りで引退。
その後もチームに残りマネージャーを1年、スカウトを4年務めて1974年に帰郷[1]。兄が経営する弁当屋の役員として約20年間営業として携わり、その後、友人に誘われてシール印刷会社の専務に就任した[1]。
1964年のある試合で判定に怒った古葉がバットを投げ捨て、ボールボーイの少年がバットを拾おうとして近づいた時、ネクストバッターズサークルでスイングしていた漆畑のバットがボールボーイの頭に直撃し、少年は頭部陥没骨折の重傷となった(この事件以降ボールボーイにはヘルメット着用が義務付けられたと言われている)[1]。幸い偶発的な事故だったため、刑事責任は追及されなかったが、その後の打撃不振の一因となった。
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