松田 輝幸(まつだ てるゆき、1945年 - )は、広島県出身のサッカー指導者。
来歴・人物
広島市商から東京教育大学へ入学し、サッカー部でセンターフォワードとして活躍。川野淳次は大学時代の一つ下。1967年に卒業、その後は広島に帰り教員となり、サッカー指導者として活躍[2]。
1969年、広島県サッカー協会から推薦されて、加茂周・上田亮三郎・清水泰男・中村義喜・大橋謙三らとともに、千葉県で行われた第1回FIFAコーチング・スクールに参加(サッカーに関するすべての理論と実技の教官はデットマール・クラマー)[2]。同スクールで助手を務めた長沼健・岡野俊一郎・平木隆三・八重樫茂生とともに、世界初のFIFAコーチ・ライセンスを受けた[2]。
そのときの実技試験でトップの成績を収めたことで[3]、クラマーに見初められ技術職員として日本蹴球協会(現日本サッカー協会)入り[2]。1970年に八重樫茂生監督の下で日本ユース代表のコーチを務めると松田が実質的なチーム作りを担い[3]同年のAFCユース選手権では10年ぶりのベスト4進出を果たした。1971年には大橋謙三の下で再びコーチを務めると同じくコーチを務めた長池実との三頭体制で[4]、地元開催となったAFCユース選手権に挑み2大会連続のベスト4進出に導き、高い評価を得た[5]。1972年にユース代表の監督に昇格すると3大会連続でAFCユース選手権に挑んだが、準々決勝で開催国のタイに1-2で敗退[6]。大会後に辞任し広島に戻る[2]。
その後広島県立広島工業高等学校教員となりサッカー部を指導[3]、攻撃的なチームを作り上げた。その当時の教え子に、河内勝幸・楚輪博・金田喜稔・石崎信弘・木村和司・猿沢茂・中本邦治・大井成元・沖宗敏彦・沖野隆幸らがいる。
その後、呉大学福祉情報科助教授を務めた[1]。
脚注
参考文献