新河岸川(しんがしがわ、しんがしかわ[2])は、埼玉県及び東京都を流れる一級河川。荒川水系隅田川の支流[3]である。
武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水や入間川(笹井堰)からの水田用水を水源とする赤間川が、埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、起点となる[4]。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と、次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する[5]。上流から川越市、ふじみ野市、富士見市、志木市、朝霞市、和光市、板橋区、北区を流れる。
元は川越市の伊佐沼が源流で、現在の和光市(かつての大和町)新倉・朝霞水門付近で旧入間川(現在の荒川)へ合流していた河川だった。荒川と並行しており、荒川が「外川」と呼ばれたのに対し、当川は「内川」と呼ばれた。
江戸時代、川越藩主松平信綱が[6]、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせ流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越とを結ぶ舟運ルートとした。これ以降、沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。
客を乗せる早舟は、川越夜舟とも呼ばれ、川越城下を午後3時に発って一晩かかって翌朝8時に千住、昼前には花川戸へ着いた。物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)があった。並舟は川越ー江戸の往復を7〜8日で行った不定期船。飛切は今日下って翌日上るという特急であった。船は喫水が浅い平田舟で、明治・大正期にはニブネと呼ばれていた。積載量は70石から80石、長さ15メートルくらいのものが多かった。
明治時代に川越鉄道(現在の西武新宿線)や川越馬車鉄道(のちの西武大宮線、廃止)、大正時代にはほぼルートを同じくする東上鉄道(現在の東武東上本線)が開業した結果、舟運は衰退していった。
1910年(明治43年)以降の荒川本流の直線化工事により、その南側の湾曲部は本流から分離された。新河岸川は、荒川の南側の湾曲部および分流を繋ぎながら東へ掘削され、現在の岩淵水門の先で荒川(現在は隅田川)へ合流する形となった[7]。
合わせて、1920年(大正9年)〜1931年(昭和6年)に川越市街地の北側を流れ、伊佐沼に流入していた赤間川に新河岸川は繋げられた(現在の田谷橋付近から田島橋付近まで開削、伊佐沼から流れ出る旧新河岸川部分は現在は九十川という)。
さらに昭和に入ると志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。その結果河道が直線化されて流量が保てなくなり、また1931年に埼玉県から通船停止令が出たことにより[8][9]、船の運航を取り止め舟運の時代は終わりを告げた。
ふじみ野市に於いて新河岸川の舟運で栄えた船問屋を修理、復元した福岡河岸記念館が一般公開されている。
水害を防ぐために下流の朝霞市に1980年度から2008年度の工期で朝霞調節池が建設された。あわせて、新河岸川放水路、びん沼川を経て1986年に完成した南畑排水機場で荒川に放水する[10]。
複数の旧流路跡が現在も埋め立てられず残っている。
特にふじみ野市と富士見市との境(湯殿の渡しのある地域)、および、富士見市と志木市との境(前河岸跡のある地域)を流れる部分は旧新河岸川と呼ばれている。
上流から
下流から
以下、埼玉県