山本 経勝(經勝[1]、やまもと つねかつ、1904年(明治37年)11月23日[2] - 1958年(昭和33年)7月8日[2][3][4])は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。
愛媛県[3][4]北宇和郡[2]日吉村[5](現鬼北町)で生まれる。日吉村高等小学校を卒業した[3][4]。
1928年(昭和3年)全国農民組合南予地方協議会青年部長に就任し農民運動に加わり、社会大衆党愛媛県連青年部長も務めた[2][3][4][5]。1932年(昭和7年)10月、帝国主義反対闘争のため治安維持法違反で検挙され、1937年(昭和12年)まで5年間入獄した[2][3][4][5]。出獄後、宇和島新報記者となるが[2]、同年11月に同社編集長の紹介で福岡県遠賀郡水巻村(現水巻町)の日本炭礦(日炭)遠賀鉱業所[注 1]に坑内夫として入所した[2][4]。
戦後、労働組合の結成に参画し、1945年(昭和20年)日炭高松炭鉱労働組合書記長に就任[2][3][4][5]。1946年(昭和21年)日本共産党福岡地方委員となる[5]。1949年(昭和24年)日炭高松炭鉱労働組合委員長に就任し[2]、同年、共産党から脱党した[5]。1950年(昭和25年)日本炭鉱労働組合(炭労)が結成され同福岡地方本部事務局長となり、1952年(昭和27年)同執行委員長に就任[2][3][4][5]。さらに炭労九州地方本部執行委員長、炭労政治局員、福岡地方労働委員会委員(2期)を務めた[2][3][4]。
團伊能の衆院選立候補に伴い1955年(昭和30年)3月に実施された、第2回参議院議員通常選挙・福岡県地方区補欠選挙に左派社会党公認で出馬して初当選し[2][3][4][6]、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で日本社会党公認で出馬して再選され[2][7]、参議院議員に連続2期在任した[3][4]。この間、参議院社会労働委員として鉱山保安問題、珪肺などの職業病対策に尽力し[2]、また国土総合開発審議会委員などを務めた[4]。1958年7月8日、議員在任中に東京都千代田区の参議院清水谷議員宿舎で死去した[7][8]。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、従五位に叙される[1]。