山本 昌平(やまもと しょうへい、1938年〈昭和13年〉1月17日[1][2][3][4][5] - 2019年〈令和元年〉10月30日[6])は、日本の俳優、声優、ナレーター[4]。本名同じ[1][2]。身長168cm、体重76kg[4]。フリーポートプロを経て[2]、オフィス山本に所属していた[3]。
台湾の澎湖島生まれ[5][1]、熊本県育ち[4]。東京都立江戸川高等学校卒業[1]。既婚。
中学生時代、走高跳で九州大会第2位となった実績を持つ[7]。
1957年に劇団七曜会の研究生となる。その後、劇団三期会演出部を経て、浅草フランス座のコメディアンとして3年間活動後、1963年にフリーとなる[1][8]。
フリーとなって以降は『荒野のダッチワイフ』(1967年)などのピンク映画を中心に活動するが、一時俳優を廃業する[1][9]。
芸能活動を休止していた時期は船員をしていた。その当時、内外タイムスの当時の編集長から映画『暴力街』の製作元である東映から山本の捜索願が出ていることを聞き、『暴力街』の監督である五社英雄と面会して出演が決定した。後年、「その時連絡がなかったら俳優を辞めていたかもしれない」と述懐している[10]。
1974年の映画『暴力街』で復帰後は、『女必殺拳』(1974年)、『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)などで悪役として活動する一方、『太陽にほえろ!』『大江戸捜査網』などのテレビドラマでも悪役を多数演じる[1]。
特撮テレビドラマ『プロレスの星 アステカイザー』(1976年)、『スターウルフ』(1978年)、『電撃戦隊チェンジマン』(1985年)に悪役でレギュラー出演した[10]。
1983年、同じ悪役俳優の八名信夫の呼びかけで、悪役スターらによるグループ「悪役商会」の結成に参加した。
バラエティ番組にも活動の場を広げ、『笑っていいとも!』には1年間レギュラー出演していた。その後も『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』や『コメディーお江戸でござる』にゲスト出演。『ダウンタウンのごっつええ感じ』では川谷拓三と一緒にショートコントにも出演した。
また、警視庁が総会屋対策として一般企業向けに制作した暴力団対策法の解説ビデオにも暴力団幹部役で出演。長きに渡って悪役を演じ続けた自身の想いや経験をもとに、暴力追放をテーマにした講演活動も行っていた。近年は老人ホームなどの福祉施設をボランティアで訪問し、子供の頃からの特技であるハーモニカ演奏を披露していた[11]。
2019年10月30日、肺炎のため東京都内の病院で死去[6]。81歳没。
悪役を演じるにあたっては美学を持って演じることをポリシーとし、その裏にある情や魂を演じることを心掛けている[12]。また、スター俳優と対峙する役であっても演技の上では遠慮はせず、若手俳優に対しても尊敬の念を持った上で相手を上回る演技を見せようという対抗心を持つなど、誰に対しても全力で演技を行うことを長年役者を務めてきた者のプライドとして掲げている[12]。時代劇や特撮については、夢がない現代でも夢を持ち続けていることが魅力であると考えており、自身もその夢の中にいられることが好きであると述べている[12]。
『荒野のダッチワイフ』の監督である大和屋竺に多大なる影響を受けており、大和屋との出会いによってその後の地位を築くことができたと述懐している[8]。
映画『女必殺拳』(1974年)の劇中、志穂美悦子との格闘で死ぬ場面は自身のアイディアである[10]。
監督の長石多可男とは、長石がピンク映画の助監督として活動していた時代より親交があり、長石のデビュー作である『ザ・カゲスター』(1976年)の第13話「ドクターサタンの世界征服作戦!!」に、昇進祝いを兼ねて怪力ロボットX1役でゲスト出演した[13]。
『プロレスの星 アステカイザー』と『スターウルフ』のメイクは自身で行っていた。しかし、役に凝りすぎるあまり毎回メイクが異なったため統一してほしいと注意を受けている[14]。
『電撃戦隊チェンジマン』のギルーク司令官役では、プロデューサーに「早く死なせてほしい」と直訴したが、聞き入れてもらえず、結局、ゴーストギルーク、スーパーギルークとして再登場することになった。また、ギルークを演じる際に、部下の前では尊大な態度をとる一方で、星王バズーの前でひれ伏す際に、悪人の中でも哀れさを漂わせる一面を見せるように心がけていた[15]。一方、『チェンジマン』で共演した浜田治貴は山本について、芝居に対する熱意をいつも持っており、怖い外見に反してすごく優しかったと述べている[16]。
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