■ ― 市 / ■ ― 町・村
地理院地図 Google Bing GeoHack MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン
大江町(おおえまち)は、山形県の中央部にある人口約6千人の町。1959年(昭和34年)、左沢町と漆川村の合併により成立。 元禄年間より大正初期にかけ、最上川舟運の中継地として大いに栄えた。
面積154.08 km²。その約80 %にあたる126.33 km²が森林である[1]。 町域は、山形盆地中央部西端から朝日山地東端の小朝日岳まで東西約24 kmに細長く広がる。また、東に接する寒河江市内および東村山郡中山町内に、複数の飛び地を抱えている。行政上、町域は、東から左沢地区・本郷地区・七軒地区に区分される。
町域西部は、朝日山系の小朝日岳や古寺山等が連なる山地帯となっている。小朝日岳を水源とする一級河川月布川が町域の中央部を横断(東進)し、町域東端の左沢地区で最上川に合流している。月布川の本・支流に沿って集落が展開しており、同河川に並行して走る主要地方道の山形県道27号大江西川線が主要な集落を繋いでいる。集落の平均標高は212 mであるが、町域で標高200 m以下にあるのは総面積の13.7 %にすぎない[2]。
町の中心地は町域東端の左沢地区であり、人口の7割超が集中している[3]。JR左沢線の終点左沢駅があり、国道287号および458号が通る。 左沢の市街地は、最上川が長井盆地と山形盆地との境界となる峡谷部を抜けた谷口から、最上川と月布川の合流点附近の氾濫原および河岸段丘上にかけて形成されている。段丘面の標高は約105 - 110 m程度、最上川の川面の標高が約100 m程度である[4]。 なお、左沢は難読地名であるが語源については諸説ある(#地名の由来参照)。
本郷地区・七軒地区は、東から、月布川下流の谷底平野に開けた農村、月布川の河谷段丘上に展開する農村、月布川の支流沿いに散在する山村の大きく3つに分類することができる。 戊辰戦争以前は、本郷地区は松山藩左沢領の一部、七軒地区は柴橋代官所(現寒河江市柴橋。1866年(慶應2年)に寒河江代官所(現寒河江市丸内)と共に長岡代官所(現寒河江市長岡)に統合)管轄の天領であった。
1978年(昭和53年)、町内大字三郷甲字用平(左沢地区)において、渇水のため露出していた最上川河床に海牛の骨格化石を、当時左沢小学校6年生の渡辺政紀と斉藤正弘の2人が発見した。産出した地層は、約800万年前の上部中新統(中新世後期)であり、標本は体前半部の骨格がほぼ完全に揃った状態の良いものであった。歯および肩甲骨等の性質から、中新世中期のヨルダンカイギュウと鮮新世のクエスタカイギュウ[注 1]を繋ぐ新種であることが判明し、「ヤマガタダイカイギュウ」と命名されている[5][6]。発見地のすぐ上流部には「明神ハゲ」や「用のハゲ」と称されている生痕化石の密集部を伴う浅海相が露出した高さ170 mに及ぶ断崖がある[7]。
左沢地区西部から本郷地区東部に掛けて新第三系鮮新統である左沢層が分布しており、5層の亜炭層が確認されている[8]。本夾炭層は、当地を中心として、北は西村山郡河北町谷地、南は山形市村木沢まで広がっており、村山炭田と称される[9]。最盛期には本郷地区に3炭鉱が開発され、操業していたが、現在はすべて廃鉱となっている。
寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。
町域全体が豪雪法に基づく「特別豪雪地帯」および雪寒法に基づく「積雪寒冷特別地域」に指定されている。積雪は12月上旬から3 - 4か月に及び、積雪量は左沢地区で1m前後、本郷・七軒地区は2 - 3mに達する[2]。一方、夏季は、フェーン現象により、30℃を超える真夏日が続くことも珍しくない。
大字本郷字己下タ原に気象庁のアメダス左沢観測所がある。
合併に因る瑞祥地名である。
1956年(昭和31年)施行の町村合併促進法に基づき、県は漆川村による左沢町の吸収合併(編入)を命じていたが、新設合併(合体)を望む左沢町の反対等により難航。最終的に新設合併で妥結したことで、当時の県知事安孫子藤吉によって新町名として命名された。
安孫子は、明代初期の詩人高啓(青邱)の詩「登金陵雨花台望大江」[12]などを引きながら、五百川峡谷を抜けてきた最上川がこの地で大きく屈曲し、はじめて大江の景観を呈することからの命名であり、平安時代末期に大江広元が当地を含む寒河江荘を領有して以来約400年に亘り繁栄し、当地(七軒地区大字貫見)で滅亡した大江氏(寒河江大江氏)からの連想は本義ではないとしている。
諸説あるが、主に人口に膾炙しているのは以下の説である。
松山藩左沢領であったうちの小漆川城址より西側、現大字本郷己以西を総称した江戸期の呼び名「本郷組」に基づく。
読みは「つきぬの」。月布川で晒した布を租税(調)として納めていたことに由来するとみられる[19]。「調布」の項も参照。
天領であった現町域のうちの大字貫見以西の貫見村、沢口村、柳川村、黒森村、小柳村、小清村、勝生村の七ヶ村を総称した江戸期の呼び名「七軒組」に基づく。
遺跡により、少なくとも後期旧石器時代から定住が確認されている。同時代の重要な遺跡として、大字左沢字木の沢(東に隣接する寒河江市内にある飛地)に存在する金谷原遺跡がある[20][21]。この遺跡から当地にかなり大規模な石器製作所があったと推察されている。[22]。
縄文時代の遺跡は、その多くが大字小見(左沢地区)から大字柳川(七軒地区)までの月布川沿いの河岸段丘上に立地する[20][21][23]。なかでも大字橋上(本郷地区)にある橋上遺跡からは、当地が石器の産地であったことを示す出土品が確認されている。当地の石器製作は、山形県中央部の出羽山地に沿って南北に走る草薙層からもたらされた珪質頁岩を背景としたもので、同様の石器製作遺跡は、月布川流域に色濃く分布している。これらの石器製作遺跡で作られた石器は奥羽山脈を越えて宮城県の縄文時代の遺跡からも出土している[22]
古墳の状況から、6世紀には当地が含まれる山形盆地一帯にヤマト王権の勢力が及んでいたと推察される[24]。
646年(大化2年)までには当地を含む最上郡(現山形県村山地方および最上地方)および置賜郡(現山形県置賜地方)が陸奥国として大和朝廷の支配下に組み込まれたと考えられる[注 5]。
712年(和銅5年)9月(現行の暦では10月)に越後国出羽郡(現山形県庄内地方)が出羽国に昇格[注 6]。同年翌月、陸奥国より最上郡・置賜郡が出羽国へと割譲[注 7][注 8]。なお、この時期、最上郡は裳上郡[注 9]とも書かれていたようである。
平安時代初期の886年(仁和2年)に最上郡が村山郡(現山形県最上地方)と最上郡(現同村山地方)に分割され[注 10]、当地は出羽国最上郡下となる[注 11]。前述の橋上遺跡からはこの時代の竪穴建物跡も検出されている。また、寒河江市内にある飛地及び大字藤田(左沢地区)などのいくつかの遺跡において同時代の須恵器窯が検出されている[33]。
11世紀初頭までには、当地を含む最上郡下寒河江荘(現西村山郡・寒河江市の全域および村山市の一部)は、摂関家荘園として成立していたとみられ[注 12]、平安時代を通してほぼ摂関家に伝領された[34]。
1189年(文治5年)鎌倉幕府の初代政所別当であった大江広元が最上郡下の寒河江荘および置賜郡全域の地頭に補任された。
1192年(建久3年)惣領である大江親広が寒河江荘の地頭職を相続し[注 13]、以後親広の子孫が伝領。13世紀末頃、広元の四世孫元顕の代に初めて当地に入部したとされる(それまでは目代による統治)[注 14]。
南北朝時代に入り、南朝方に与した元顕の子元政は1359年(延文4年・正平14年)北朝より派遣された斯波兼頼との戦で討ち死。跡を継いだ元政の子時茂は一族を寒河江荘各地に配置し、防禦に備えた。当地には次男大江元時が配され、左沢楯山城に拠った[35]。
1368年(応安元年・正平23年)、元時は斯波最上氏との漆川の戦い(現本郷地区大字荻野)で敗れ、荻袋盾(現本郷地区大字荻野)に拠っていた次男大江冬政ら一族60数名と自刃。しかし、元時の長男氏政らは楯山城に残存し、後に左沢氏を称し国人としての独立性を高めていった。
1584年(天正12年)、最上義光の攻勢を受けた寒河江大江氏18代高基は敗走し、貫見盾(現七軒地区大字貫見)で自刃。大江氏は滅亡し、寒河江荘であった領域は全て最上氏の支配下に入る。
1600年(慶長5年)慶長出羽合戦が起こると上杉氏の別動隊により攻撃を受け楯山城は陥落する。最上氏の下では長尾右衛門が治めた[36]。
1622年(元和8年)、最上氏の改易により、左沢藩1万2000石が成立し、酒井直次が封じられた。直次は、当初、左沢楯山城を藩庁としていたが、ほどなく小漆川城(現大字左沢字小漆川および大字本郷己字古城裏)を築城し、城下町の整備を行った。
1630年(寛永7年)、直次は嗣子なくして没したために絶家。左沢は収公され天領となり、庄内藩の預地を経て、1632年(寛永9年)に庄内藩丸岡領との交換が成立し、庄内藩領に組み込まれた。これは、肥後藩の改易に伴い藩主加藤忠広が庄内藩預かり処分となった後、庄内藩丸岡領に出羽丸岡藩1万石として封じられた処置に因るものである。
1648年(慶安元年)、庄内藩より松山藩が分知の折、現左沢(除く大字三郷)および本郷地区は松山藩領となる。
1868年(慶應4年)、戊辰戦争後の処分により天領(長岡代官所管轄)であった現七軒地区および棚倉藩領となっていた現左沢地区大字三郷が酒田民生局に移管。
中心となる駅:左沢駅
[46])