石器(せっき、英: stone tool)は、人間が石を用いて製作し、使用した道具[1]。基本的には、特に石器時代の遺物を指す[2]。
石器は石(岩石や鉱物)を材料として人によって製作あるいは使用された痕跡が残されている利器をいう[要出典][3]。なお、石製の装飾品や儀器は儀礼の場などで用いられたもので日常生活に使用された「利器」とは大きく性格を異にするため「石製品」という別のカテゴリに分類されることが多い[要出典]。石製品とは、利器や武器でない石皿、磨石(すりいし)、砥石、台石(だいいし)、敲石(たたきいし)などの総称をいう[4]。石製の装身具や古墳時代以降の石製の道具類は、石製品あるいは石造物などとよんで区別するのが一般的である[5]。
「石器」は主として「手の延長」としての石製の道具を指し、石碑や墓石のようなものは「石器」に含めない。ただし日本の縄文時代に儀式に使用されたと考えられる石棒のようなものまで「広義の石器」に含めることがある。石器は製作や使用に伴って、大量の石の破片(「石片」。剥片、砕片など)が生じる。これらは直接的には「道具」とよぶことはできないが、道具としての石器の製作や使用に深い関連があり、本来はその「本体の一部であったもの」にもあたることから、「石器」として扱う範囲にある[1]。(実際には、石を材料とした道具は現代でも、いくつかのもの、例えば石臼など[注釈 1]では、現代でも使われ続けているが)「石器」という用語は、(現代も現役で使われている石製の道具を指すためにはあまり使われず)おもに遺跡から遺物として発見される考古資料を指す[1]。
石器の製作や使用方法については、(今日に見られる土俗・民俗例などから類推することもありはするが)できるだけ加工の痕跡や使用の痕跡などから復原的に理解することが必要である[1]。石器の表面に観察される「加工痕」と「使用痕」は厳密に区分され、製作実験や使用実験(→実験考古学)を通して追跡検討しながら、その石器を作り使った人の意図や仕組みにまでも迫る研究が行われるようになってきた[1]。 石器と石片の関係は、元になる石から一撃によって分かれた二者として、接合関係(分かれた二者がふたたびあわさる形状的関係)をもつ[1]。遺物について、その直接的な関係を確認する整理作業があり、分かれた二者を確認して、元の状況に戻す作業を「接合作業」とよび、それによって復原された資料を「接合資料」という。接合資料は近年増加してきており、その評価は石器の製作の経過を理解するため、また使用の経過をより具体的に理解するためのデータとして重視されている[1]。
なお出土する同じ石の分散状況に焦点を当てて、石器用石材の分配の証拠として、遺跡内や遺跡間での人間関係を論じるためのデータとして利用する研究の動きもある。自然科学の領域で岩石成分組成の研究が近年進み、火山岩系の岩石の産地の同定(判別)が可能になったので、遺跡から出土する石器の石質と産地との関連を調べることにより、「石材」がどのように流通したのかについても論じられるようになってきた[1]。
日本では、藤貞幹『集古図』(安永年間刊行か)のなかに石斧類の図を掲げて「石器」の呼称を採用していた[5]。
人間と石器とのかかわりは250万年以上前までさかのぼる。この石器製造の証拠が残っている最初期の時点で、すでに打ち割り面を複雑に組み合わせた加工がみられるので、単純な石の利用はさらにさかのぼるだろうと推察される[1]。人類が使い始めた時期は、約330万年前とする説もある[6]。
アフリカやユーラシアの初期人類による礫器は数10万年以上ほとんど変化せず同じような作り方で製作されていた[要出典]。人類史的な区分では約260万年前から1万年前頃までを「旧石器時代」あるいは「旧石器文化」という[要出典]。
彼らの亜種であるホモ・ハイデルベルゲンシスは、アフリカから出て中東を経由し、30万年ほど前にヨーロッパまで進出したが、使用していた石器は、より古い時代のホモ・エレクトスとそう変わらなかったとされ、両者を別種と見なさない説もある。
1万年前をすぎると人類は煮沸具や貯蔵具、食器として土器を利用するようになり世界各地に普及した[要出典]。また、土器につづき金属器が世界各地に普及したことで道具は石器は金属器に置き換わっていった[要出典]。
石器の分類には技術形態学的に基づく分類と機能形態学に基づく二つの体系がある[要出典]。
代表的な分類にフランスの著名な先史学者フランソワ・ボルド(fr:François Bordes、1919-1981)が案出した厳密な石器分類基準がある。
以下は色々な観点からの分類である[7]。
打製石器は人が石に打撃または圧力を加えて石を割ってできあがった石器である[要出典]。
このうちオルドワン型石器群は、ヒト科人類による最古の石器群と言われている[注釈 9][9]。礫の一部を打撃して造るチョッパー・チョッピングツールを主体とする。この石器群は、ケニアのトゥルカナ湖東海岸の諸遺跡やタンザニアのオルドヴァイ峡谷の遺跡などで出土している。因みに、この石器の担い手はホモ・ハビリスもしくは頑丈型猿人と推測されている。
磨製石器は人が石を磨いてできあがった石器である[要出典]。
J.ラボックによって新石器時代の指標とされたが、実際には中石器時代に当たる紀元前9000年に北西ヨーロッパや西アジアで局部磨製石器が出現している。
日本列島では後期旧石器時代である3万〜4万年前のものと推定される局部磨製石斧が、群馬県岩宿遺跡、栃木県磯山遺跡、長野県野尻湖遺跡群(杉久保遺跡・日向林B遺跡など)、東京武蔵野台地の栗原遺跡、千葉県三里塚55地点遺跡などから出土し、旧石器時代に磨製石器が存在したことが明らかになった[10]。小田静夫によれば、日本列島の旧石器時代の磨製石斧は、3-4万年前に集中し、一旦消滅してその後は縄文時代草創期にならないと出現しないが、現在、世界最古の磨製石器とされる[11][12]。
礫塊石器は打製石器や磨製石器のように製作する過程の痕跡をとどめず使用の痕跡だけが残されている石器をいう[要出典]。打製石器を作るための敲石(たたきいし)、磨製石器を作るための砥石、穀物や堅果類を調理するための石皿などである[要出典]。
石器の材料は岩石や鉱物である[要出典]。
日本列島の旧石器時代に用いられた石材の代表的なものは、黒曜石、硬質頁岩、サヌカイトなどがあげられる。
※この石材の節は、「後期旧石器時代の地域色」堤 隆 『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年を参照した。
石に打撃や圧力が加えられて割れたとき、発生した欠片を剥片 (flake)、 欠片が取れた核の部分を石核 (core)という[要出典]。
石器、すなわち石製の道具というのは今でも、人類が使用するテクノロジーの中で特に成功をおさめているものである[14]
フリントロック式銃は、16世紀に火打ち石を使うメカニズムのものとして発明された[15]。フリントロック式銃に使う火打ち石を製造する産業は20世紀なかばまで、イギリスのサフォーク州ブランドンなどで存続していた[16]。