大さん橋 (おおさんばし)は、神奈川県 横浜市 中区 にある横浜港 の港湾 施設。
概要
1894年 (明治 27年)に完成した鉄桟橋 を前身とし、「税関桟橋 」「横浜桟橋 」「山下町桟橋 」等の様々な名称があったが、その後、「大桟橋 」に落ち着いた[1] 。その他、太平洋戦争 後連合軍 に接収されていた間は「サウスピア 」と呼ばれ[2] [注 1] 、明治の末頃から1970年 頃までは「メリケン波止場 」とも呼ばれていた[3] 。前身施設は名実ともに桟橋 であったが、2002年 (平成 14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には桟橋ではなく岸壁 であり、平仮名 混じりの「大さん橋 」が正式な表記である[4] [5] 。
横浜港大さん橋ふ頭 および横浜港大さん橋国際客船ターミナル により構成され、横浜港における国内および外国航路 の客船 の主要発着埠頭 である。横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地 としても知られている[6] 。
日本郵船 の子会社・郵船クルーズ のクルーズ客船 である「飛鳥II 」は横浜港が船籍港 (母港)であり、大さん橋を拠点としている。また、横浜港周遊船であった「ロイヤルウイング 」や東海汽船 による伊豆諸島 への離島旅客 航路も持っている[7] 。
歴史と趨勢
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海上から見る大さん橋ふ頭
横浜開港から大桟橋建設まで
横浜港は幕末 の1859年 (安政 6年)に開港して以来、急増する貨物量に対し、イギリス波止場(後の「象の鼻 」波止場と呼ばれる)やフランス波止場[8] と呼ばれる艀 荷役に必要な小規模の船溜まりこそあったものの、直接岸壁に接岸し荷役を行える施設がなかった。
増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなくなり、接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性が高まっていった[9] 。艀荷役は、慢性的な埠頭不足により、海上コンテナ 輸送への質的転換まで長く続き、まずは近代国家に相応しい埠頭を建設することが当時の早急の課題とされた。
明治維新 直後から井上馨 大蔵大輔や、神奈川県知事 からの要請により、1870年に工部省 お雇い外国人 の英国人技師リチャード・ブラントン による横浜築港桟橋計画の提案[10] や、1874年には内務省 お雇い外国人オランダ人技師ファン・ドールンにより築港計画提案[11] に至り、大隈重信 大蔵卿からも接岸荷役体制に向けた築港計画が上申され、多くの要望があったが、実現できなかった[11] 。また当時、既に東京港 建設の機運があり、品川 沖に築港する案もあったが、横浜市からの反対や財政難により、、これも実現しなかった。
横浜開港から27年が経過した1886年になり、機運はいよいよ高まり、内務省 からオランダ人技師デ・リーケへの設計要請や、神奈川県よりイギリス陸軍 大佐 であり技官であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請となった[12] 。しかし両者の設計案は、明治政府 内でも議論が拮抗し、さらに政府内ではその上位案件として、東京港建設と横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が深まっていた。
外務大臣になっていた大隈重信 は、横浜港建設を強く進言し、さらにパーマーがイギリス帝国 『タイムズ 』記者を兼職して同紙上で日本を好意的に報道した実績[9] や、不平等条約 改正 に向けた日英同盟 への動きと相交じり、正式にパーマーの横浜港築港案が採択された[9] 。さらに下関砲撃事件 での賠償のうち、アメリカ合衆国 へ支払った賠償金が、1883年にグラント大統領 およびアメリカ合衆国議会 承認より、日本への償還が承認されており、償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的目処も整った[9] 。
この時期に横浜築港が正式決定されたことが、後年の横浜港や横浜市の発展に繋がる決定的瞬間であったともいえる。
こうして1889年に横浜築港第一期工事が始まり、接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。しかし基礎に必要な螺旋 杭は、日本の工場からは供給できなかったため、大量の螺旋杭 を輸入して建築された。こうして1894年に現在の大さん橋の前身となる「鉄桟橋」 が完成した[13] 。鉄桟橋は陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は457メートル、幅19.2メートルの当時の技術で最先端を行く近代埠頭であった。
鉄桟橋の完成を見たものの、横浜港の貨物取扱量は近代日本の急成長とともにさらに急増し、外航路客船はともかく、依然として艀荷役に依存せざるを得ない状況であった。これは貨物滞留や物流遅延を招き、横浜経済界からも更なる横浜港拡充の要請が強まっていった。これが横浜築港第二期工事と繋がり、新港埠頭 建設へと繋がっていった[14] 。
横浜築港第二期工事では「鉄桟橋」も拡張され幅42.8メートルとなり、2つの木造2層型上屋 が新設され、低層部は貨物倉庫、上層部は旅客施設や旅具検査場、ならびに電信電話設備や事務室が併設された。1913年に第二期工事は完成した[13] 。
こうして鉄桟橋は、外国航路の貨客船 における日本の主要拠点となり、日本郵船 ・東洋汽船 ・大阪商船 など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。ヨーロッパ 航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド 、フランス郵船 、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントラインズ 等が定期航路を開設するようになった。
新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等鉄桟橋の負荷を緩和させた。鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル 航路が発着するようになった。新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争 後もシアトル航路に復帰した日本郵船の「氷川丸 」が発着を続けた。氷川丸が1960年に最終航海を終了させるに伴い、新港埠頭の旅客業務も終了した。
鉄桟橋(後の大桟橋)を含む横浜港からは生糸 や茶 が主要な輸出 品であり、大日本帝国 に大きな外貨 獲得機会をもたらした[13] 。生糸や茶貿易 で大きく成長した横浜商社もあった。原三渓 の歴史や、現在も観光名所である三渓園 やシルクセンター に往事を偲ぶことができる。輸入品としては大豆 、小麦 、綿花 、石炭 等があった。
関東大震災による倒壊と復興
1923年9月1日の関東大震災 により大桟橋は崩壊した[12] 。大桟橋には当時3隻の客船が接岸しており、カナダ太平洋汽船の「初代エンプレス・オブ・オーストラリア (英語版 ) 」の船長サミュエル・ロビンソン が当時の救出活動や罹災状況につき詳細な記録を残している[15] 。ロビンソンは被災者の船上への救出活動などで活躍し、紅綬褒章 を受章したのをはじめ、各国でも救助活動を高く評価され勲章を与えられている。大桟橋の復旧は1923年10月から始まり、1925年9月には完成した[16] 。1928年までに2棟の上屋が建設され、チャータード銀行 、香港上海銀行 支店が開設され、帝国ホテル 直営の桟橋レストランが開業した[16] 。
この頃から海運競争力維持や国威高揚も兼ねて日本船籍の新鋭客船新造が相次いだ。外国新造大型船も続々と入港するようになり、大桟橋は黄金期を迎え、多忙な桟橋となった。チャーリー・チャップリン の来日も大桟橋から始まるなど、大桟橋を場とした国際旅客の乗下船による文化交流が最も盛んな時代であったといえる。一方では、昭和恐慌 により疲弊した農村 部からの南米 移民 が急増した時代でもあり、大桟橋は南米移民の日本出発の最終拠点として、周辺の移民宿と共に歴史に大きな軌跡を残していくことになる。
太平洋戦争と連合国接収、接収解除
太平洋戦争 終結により大桟橋は連合国 に接収され[12] 、サウスピア と改称された[2] 。降伏文書 調印のために米国戦艦 「ミズーリ 」に向かった重光葵 外相も大桟橋から小型船に乗船している。連合国も連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) を当初置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランド であり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわることが、横浜の開港以来の宿命を如実に表している。
大桟橋は1952年2月15日に接収解除となり[17] 、北アメリカ 定期航路にはアメリカンプレジデントラインの「プレジデント・ウィルソン 」や「プレジデント・クリーブランド 」、ヨーロッパ航路にはP&Oクルーズ の「チューサン 」、オリエントラインの「オロンセイ 」などが就航。日本郵船の「氷川丸」がシアトル航路に復活するなど、第二の盛時を迎えた。
また日本人 の移民船として「ぶらじる丸 」、「あるぜんちな丸 」等が就航し、1960年代初頭までの戦前に続く第二次南米移民ブームを支えた。また後にソビエト連邦 とのナホトカ 定期航路も開設され、シベリア鉄道 に乗継ぐことで、安価な旅費でのヨーロッパ渡航が人気を博した。
この頃の「氷川丸」でフルブライト 留学生 として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団 の渡米にも利用された。1968年 4月には、世界一周クルーズ 中のキュナード・ライン の「カロニア 」が来航した(同船は出帆時に、港口の白灯台 を薙倒す事故を起こした)。
東京オリンピックから1970年代初頭
1964年の東京オリンピック に合わせて3度目の大改修が行われた。国際船客ターミナルとしての高機能化が図られ、2階建国際船客ターミナルが完成した。1階部分に税関 ・出入国管理・検疫 施設を構え、2階部分に渡航旅客や歓送迎者用待合所や土産物店向け設備が整えられた。
自走式ボーディングブリッジ により、接岸船舶の高度差や位置に関わらず、ターミナルからの乗下船が容易になるなど、当時としては最高位の機能を備えていた。1970年には貨客船寄港数が過去最高 となったが、海外渡航の主力は空路になっていた。大型旅客機 ボーイング747 就航による航空輸送力の増強や、海路旅行者の激減、1970年代初頭の石油危機 による原油価格高騰により、外航貨客船航路は急速に衰退した。
1973年には、「あるぜんちな丸」の最終航海によって、1世紀に渡る海外移民航路が終焉した。一方1975年3月には、「クイーン・エリザベス2 」が初入港し、空前の52万人の見物客で溢れ返った。以降、大桟橋に寄港する客船は、全てがクルーズ客船 となり「ロイヤルバイキングスター 」「キャンベラ 」「ロッテルダム 」が、主に横浜を寄港地とするようになった。
特筆すべきは、旧ソ連極東船舶公社がナホトカ定期航路を持続運用し、1980年代全体を通して、横浜港を国際旅客定期航路保有の港としての威容を保った。
1980年代から現在
改修工事中の大さん橋、手前は横浜赤レンガ倉庫 (2002年2月)
1980年代から、斜陽化する海運旅客事業を憂う声がある一方、クルーズ産業の興隆という新しいクルーズ客船 の在り方が脚光を浴び始め、日本の経済成長に伴い、日本市場のクルーズ人口も拡大してきた。船舶の巨大化と、大桟橋そのものが設備更新時期を迎え、1989年から大桟橋改修事業が着手され、2002年に新たな大さん橋国際船客ターミナル が完成した。
設計は、国際コンペ660件の応募から、アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィの設計が選定された。構造は地下1階地上2階建の鉄筋コンクリート造となっており、全床面積は44,000平方メートル となっている。1階は約400台の普通車に対応する駐車場、2階は出入国ロビーとしてインフォメーション・発券所・船客待合場所・店舗・レストラン・CIQ施設を備える。
また第1と第2ホールを備え、多目的に利用できるスペースを確保している。A、Bバースは延長450m、水深12mを備え、C、Dバースは延長450m、水深10〜11mとなっており3万トンクラスの客船は4隻、より大きな客船は同時2隻着岸が可能となった。バリアフリー型渡船橋4基装備により、今後のクルーズ客船増加に対応できる埠頭として整備された。
建物2Fや屋上床はブラジル 産イペ を使用したウッドデッキ になっており、さらに天然芝 の緑地を設けてある。接岸船舶からの眺望や周辺空間の眺望を遮らないことを考慮し、比較的低層構造となっている。2000年代から横浜市からも積極的な客船誘致を行い、2011年の年間客船入港数は全国港湾の中で9年連続の1位となった[18] 。大さん橋の稼働能力を活かすため、より一層のクルーズ客船寄港誘致を進め、港湾機能の維持拡大や港勢拡大を行い、乗船客および観光集客増に結び付け、地域経済の発展に寄与させることが課題となっている。
2017年1月には訪日クルーズ客の増加を見込み、国土交通省 が官民連携により施設整備を行う「国際クルーズ拠点」の一つとして、横浜港の大さん橋と新港 地区を選定した。大さん橋では郵船クルーズが旅客ターミナル内に待合ラウンジ を整備する計画で[19] 、同社のクルーズ客船「飛鳥II」による岸壁の優先使用(15年〜20年間)が認められることとなった[20] [21] [22] 。その後2019年4月12日より上級船室利用者向けの「アスカラウンジ」として開業した[23] 。
パナマックス問題
クルーズ客船 の寄港誘致が課題であるが、2000年代の超大型クルーズ船(海面上の高さ〈マスト 高〉がパナマックス の高さ制限である57.91m クラス)が横浜ベイブリッジ 下(主塔高175m・主塔上端から道路部まで120m=海面から道路部までの高さ約55m)のクリアランス (船が通過できる高さ)を達成できないため、大さん橋に着岸できない。そのため、2009年と2010年の「クイーン・メリー2 」の横浜港 寄港では、旅客用の大さん橋ではなく、貨物埠頭である大黒埠頭 に着岸した。
しかし、本来は貨物埠頭の上、横浜市の中心部である中区 から離れているため、横浜への滞在時間が短くなってしまう搭乗客からの不満から、キュナード・ライン は「クイーン・メリー2」の日本寄港地を大阪港 に変更したため[24] 、横浜市民からはこれを憂う声が高まった。その後、キュナード・ラインは2014年に「クイーン・エリザベス 」を寄港させ、干潮 時に横浜ベイブリッジを通過することで、大さん橋への接岸を可能にした。
横浜港における横浜ベイブリッジをくぐれない超大型クルーズ船問題の抜本的な解決策として、横浜市では横浜ベイブリッジ外側にある本牧埠頭 や大黒埠頭の岸壁を超大型クルーズ船(海面上の高さ〈マスト高〉が55m以上の船)に対応した「客船ターミナル」として再整備する方針を示しており[25] [26] [注 2] 、さらに新港埠頭 や山下埠頭 にも客船ターミナルを整備することで、今後のクルーズ客船需要を取り込み、市内観光の活性化に繋げるための検討が進められている[26] [27] [注 3] 。2017年からは大黒埠頭 にて超大型船への対応を目的とした改良工事に着手し、CIQ 施設など新設した上で2019年4月19日より運用を開始した[28] [29] [30] 。
横浜港大さん橋国際客船ターミナル
上部
横浜港大さん橋国際客船ターミナル は、横浜港で大型客船が複数同時着岸できる主要旅客ターミナルとして建設された。「クイーン・エリザベス2 」クラスの客船が2隻同時着岸できる。また3万トン以下クラスの客船であれば4隻同時着岸が可能であり、その規模は神戸港の新港 第四突堤(神戸ポートターミナル )に次ぐ。建物は、内部に柱・梁がなく[31] 、また階段が無くスロープやエレベータ で昇り降りする非常に先取的構造となっている。また、屋上はウッドデッキおよび芝生 広場となっており、24時間自由に出入りできる、公園 のような場所となっている。
大さん橋ふ頭ビル
大さん橋は海路からの出入国の場であり、横浜港や横浜税関 を経由する旅客の出入国の場である。現在でも外国航路に出るクルーズ客船 に乗下船する際は、ここで通関や出入国手続きや手荷物検査を行う。乗下船は基本的にはボーディング・ブリッジ を使用してターミナルを経由して行うが、寄港するだけの場合はツアーバスを停めるスペースの関係上、タラップ を使用しての岸壁経由となる。
大さん橋は国内離島 航路もあり、伊豆諸島に向かう東海汽船 の定期航路の発着場としても広く利用されている。また時季によっては、伊豆諸島航路の帰路に便乗する形で、東京港の竹芝埠頭 への夜景 クルーズが利用できる[32] 。
一帯はみなとオアシス の登録をしていて、ターミナルはみなとオアシス横浜港 の代表施設である。
大さん橋ホール
ホール内部
大さん橋ホール は、大さん橋の2Fの奥に位置する多目的ホールである[33] 。相鉄企業 ・横浜港振興協会・相鉄エージェンシー共同事業体が管理・運営している。床面・壁面はウッドデッキ 仕上げ、正面奥は強化ガラスウォールであり、横浜ベイブリッジ 方面を望むことができる。広さは約2,000m2 であり、天井高は6.5〜7.5mある。最大で1,200名の収容が可能であり、屋上フリースペースから連続した空間としての利用も可能である。朱孝天 のアルバム『On Ken's Time 』に収録されている「La La La」や茅原実里 「ZONE//ALONE 」のミュージックビデオなど撮影地としても用いられる。
新しい愛称「くじらのせなか」
大さん橋屋上のフリースペースは、大型客船の入出港時等は多くの見物客で賑わい、今や横浜の一大観光スポットとなっているが、このスペースをより親しみやすい場所に育てるべく、2006年 に横浜市港湾局が愛称 を一般から公募した。その結果、大さん橋全体を大きなクジラ に見立てイメージされた「くじらのせなか 」が選定され、同年12月に公式な愛称となった。「屋上広場の特徴をよく表し『海に浮かぶ雄大なくじら』をイメージさせる。また、子供達に親しみやすく、わかりやすく、かつユニークである。」という選定理由から上述の名称となった[34] [35] 。
なお、この愛称を派生させる形で、大さん橋の室内部分が「くじらのおなか」と呼ばれるケースも生じており、例えばミニコンサート等のイベントが行われる場合、「くじらのおなかコンサート」といった言葉の用いられ方がなされている[36] 。
交通
ギャラリー
周辺
舞台となった作品
※発表年順
映画
ゲーム
参考文献
脚注
注釈
^ 同様に瑞穂埠頭 は「ノースピア」、新港埠頭 は「センターピア」と呼ばれた。
^ ちなみに東京港 においては、レインボーブリッジ 外側にある「船の科学館 」跡地(東京臨海副都心 )に超大型クルーズ船用の客船ターミナルを建設することが決定している。
^ 横浜港は2017年7月に国土交通省より「国際旅客船拠点形成港湾」に指定されており、横浜市ではその拠点として大さん橋や新港埠頭、山下埠頭、本牧埠頭の計4箇所を想定している(整備目標は2025年。なお、これらに含まれない大黒埠頭の扱いについては、本牧埠頭に22万総トン級の超大型クルーズ船に対応した多目的岸壁を整備する〈同年目標〉までの繋ぎとして2019年より暫定活用する方針)[26] [27] 。
出典
関連項目
外部リンク
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座標 : 北緯35度27分6秒 東経139度38分52秒 / 北緯35.45167度 東経139.64778度 / 35.45167; 139.64778