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倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945年)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
第一神港商業学校では、1927年夏と1929年春の甲子園に出場[1]。
1929年春は捕手として出場し決勝で広陵中を3対1で破り優勝。
その後、法政大学に進学し、若林忠志とバッテリーを組み、法大を初のリーグ優勝に導いた。
1934年に読売ジャイアンツの前身にあたる大日本東京野球倶楽部の結成に参加[1]。復帰した1939年、肩の故障により引退[1]。
翌1940年から1941年まで審判を務めた[1]。1944年に応召、翌1945年(月日は不明)に沖縄で戦死[1]。享年34。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
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