三河島駅(みかわしまえき)は、東京都荒川区西日暮里一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJJ 03。
当駅に乗り入れている路線は常磐線のみだが、本線のほか、当駅からは田端駅(田端信号場駅)方面への支線(田端貨物線)と隅田川駅方面へ向かう支線(隅田川貨物線)が分岐する。支線は田端信号場駅方面は貨物列車と臨時列車が、隅田川駅方面は貨物列車のみが使用する。
旅客駅には常磐線快速電車および中距離電車のみが停車し、東京メトロ千代田線に直通する常磐線各駅停車は当駅を経由しない。したがって、複々線区間で常磐線各駅停車のみが停車する綾瀬駅・亀有駅・金町駅へ向かう利用客は、北千住駅で常磐線各駅停車に乗り換える必要がある。土浦・水戸方面に直通する中距離電車はかつて日中しか停車しなかったが、2004年(平成16年)3月13日のダイヤ改正以降は、通勤快速・特別快速を除くすべての中距離電車が停車するようになった[4]。
当駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。
島式ホーム1面2線を有する[1]高架駅である。
本線の両側にはホームのない支線の線路がある。下り線側は田端信号場駅方面から来て南千住駅寄りで合流する。合流地点は三河島事故が起きた現場である。上り線側は田端信号場駅と隅田川駅を結ぶ単線で、南千住駅寄りに上り線からの渡り線がある。
改札口は南千住駅寄りの1か所のみに設置されている。ホーム上屋は短かったが、2011年(平成23年)に増設工事が完了し、ホーム長の過半をカバーすることになった。ホームの幅はやや狭い。中ほどに待合室がある。
自動券売機、多機能券売機[3]、指定席券売機[3]、自動改札機、乗車駅証明書発行機が設置されている。また、お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる[3]。なお、乗車駅証明書発行機は早朝のみの稼働である。
2010年(平成22年)12月よりエレベーター設置工事が行われ、2011年(平成23年)4月に完了した。
2023年度(令和5年度)の1日平均乗車人員は11,500人である[JR 1]。常磐線(常磐快速線)のJR東日本首都圏本部管内(上野駅 - 取手駅間)の駅の中では最も少なく、東京23区内では越中島駅・上中里駅・尾久駅・高輪ゲートウェイ駅に次いで5番目に少ない。
1990年度(平成2年度)以降の推移は以下のとおりである。
駅の出口は尾竹橋通りに面している。当駅から日暮里駅までの線路は弧を描くような急カーブになっており、直線距離では日暮里駅・西日暮里駅・町屋駅も徒歩圏内にも入るほどの近さにある。
江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のために三河から連れてきた伊藤氏(伊藤七家)などの農家が居住して稲作を行っていた。当時の三河島村はタンチョウの飛来地としても知られていた。(⇢ タンチョウ#江戸のタンチョウ)
明治時代には上野の戦いから逃れた彰義隊の残兵が伊藤家に匿われた経緯も史記に残っている。日暮里出身の吉村昭の『彰義隊』に詳しい。
明治から大正までは湿地帯や農家の屋敷も残る田園地帯であった。また、文京区の柳沢吉保邸であった六義園に展示されている江戸地図に三河島近辺は田畑の表記になっている。
明治以降、屠殺場および皮革工場、下水処理場(三河島水再生センター)などの施設が建設されるようになり、戦前戦後にかけて、それらの工場や施設に日本人労働者や朝鮮半島出身者(多くが済州島出身者)が移住して働くようになった[7][新聞 2]。そのような経緯から現在では駅周辺は焼肉店などハングルの看板が並ぶコリア・タウンともなっており、東京朝鮮第一初中級学校も近辺に所在する。規模的には御徒町(東上野)、大久保(新大久保)、川崎市桜本、千葉市栄町など関東の他コミュニティよりも比較的規模も活気も小さい。高度経済成長とともに金物加工や印刷、製紙や箱工場も増え、工業地域となった。
1962年(昭和37年)には「国鉄戦後五大事故」の一つとされる死者160人を出した三河島列車衝突事故が発生した。
三河島駅より徒歩で3分ほどの東日暮里三丁目37番6号の民家に「藤の大滝」と呼ばれる高さ12メートルほどの藤の木がある。毎年4月下旬に見ごろを迎える。1973年(昭和48年)に植えられたもので、その後1986年(昭和61年)に荒川区の保護樹木に制定された[8]。「藤まつり」が催されることもある[9][10][新聞 3]。
三河島駅前バス停にて、都営バスの路線バスが発着する。