ボブ・バックランド (Bob Backlund 、本名:Robert Louis Backlund 、1949年 8月14日 [ 2] - )は、アメリカ合衆国 のプロレスラー 。ミネソタ州 プリンストン出身。
1978年 から1983年 にかけて、WWFヘビー級王者 として活躍。日本では「ニューヨークの帝王」「超新星」などのニックネームで呼ばれた[ 4] 。
来歴
ノースダコタ大学 在学時の1971年 、NCAA のレスリング 選手権で優勝。卒業後、ミネアポリス にてエディ・シャーキー (英語版 ) のトレーニングを受け[ 5] 、1973年 にNWA のトライステート地区でデビュー[ 6] 。翌1974年 3月、テキサス州 アマリロ に転じ、地区デビューから1週間後の3月9日にカール・フォン・スタイガー からNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取する[ 6] [ 7] 。アマリロではジャンボ鶴田 やスタン・ハンセン と邂逅し、3人は同じ車で移動していたという[ 8] 。同年7月、アマリロとの提携ルートで全日本プロレス に初来日。外国人選手はミル・マスカラス をエース格に、シューター として知られるダニー・ホッジ とボブ・ループ も同時参加していた[ 9] 。
以降もNWAの主要テリトリーを転戦し、1975年 10月にはジム・バーネット の主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリング にて、ジェリー・ブリスコ と組んでトール・タナカ &ミスター・フジ からジョージア・タッグ王座を奪取[ 10] 。1976年 4月23日にはNWAの総本山ミズーリ州 セントルイス にて、ハーリー・レイス を下しミズーリ・ヘビー級王座を獲得[ 11] 。以降、ロード・アルフレッド・ヘイズ 、ロジャー・カービー 、キラー・カール・クラップ 、オックス・ベーカー 、前王者レイスらの挑戦を退け、11月26日にジャック・ブリスコ に敗れるまで、NWA世界王者への登竜門とされた同王座を保持した(戴冠中の10月8日には、キール・オーディトリアム にてテリー・ファンク のNWA世界ヘビー級王座 に挑戦している)[ 12] 。
その後フロリダ地区 やAWA を経て、1976年12月7日のテレビマッチよりWWWF(後のWWF、現在のWWE) に参戦[ 13] 。東部地区での知名度は高くなかったものの、クリーンなイメージの漂うアスリート・タイプのバックランドは、かつてのブルーノ・サンマルチノ 時代との差別化を図る上で絶好の選手だった[ 14] 。また、ビンス・マクマホン・シニア はサンマルチノやペドロ・モラレス を王者としていた頃のような、イタリア系 やプエルトリコ系 といったエスニック・グループの観客への依拠から脱したいと考えており、出自を問わない「オール・アメリカン・ボーイ (The All-American Boy )」として、アメリカ人全体の支持を集めるべくバックランドはプロデュースされた[ 13] 。1978年 2月20日、ニューヨーク のマディソン・スクエア・ガーデン にてスーパースター・ビリー・グラハム を破り、WWWFヘビー級王座 を獲得[ 15] [ 16] 。以降、翌年にWWWFが団体名をWWFに変更し、タイトルもWWFヘビー級王座と改称されてからも、ニューヨークの若き帝王として幾多のチャレンジャーを迎え撃った。
対ハーリー・レイス 戦(1980年)
WWF王者時代には、AWA世界王者ニック・ボックウィンクル (1979年3月25日、トロント )[ 17] 、NWA世界王者ハーリー・レイス(1980年 9月22日、ニューヨーク / 同年11月7日、セントルイス)[ 18] [ 19] 、NWA世界王者リック・フレアー (1982年 7月4日、アトランタ )[ 20] との王座統一戦も行っている(いずれも引き分けまたは反則裁定により、王座は移動せず)。1980年8月9日にシェイ・スタジアム で開催された『ショーダウン・アット・シェイ 』ではペドロ・モラレスと組んでワイルド・サモアンズ を破り、WWFタッグ王座 も獲得している[ 21] 。
WWFと提携していた新日本プロレス には1978年5月に初参戦[ 22] 。以降もWWF王者として来日し、たびたび防衛戦を行っている。1979年 11月30日に徳島市立体育館 でアントニオ猪木 に敗れ一時王座を失っているが、1週間後の12月6日、蔵前国技館 で行われたリターンマッチの内容(タイガー・ジェット・シン の乱入による無効試合裁定)を不満として猪木が王座を返上[ 15] [ 23] [ 24] 。12月17日、マディソン・スクエア・ガーデンにてバックランドとボビー・ダンカン との間で王者決定戦が行われ、これに勝利したバックランドが再びWWFヘビー級王座に返り咲いた[ 15] (猪木の王座獲得は、現在のWWEの公式記録には残されていない。バックランド対ダンカン戦も現地では王者バックランドの防衛戦として扱われている)[ 23] 。
対アントニオ猪木 戦(1979年)
1980年5月の新日本『第3回MSGシリーズ 』への特別参加では、同月27日に大阪府立体育館 にてダスティ・ローデス を相手にWWF王座を防衛[ 25] 。同年の12月には猪木とのコンビで『第1回MSGタッグ・リーグ戦 』に出場、決勝でスタン・ハンセン&ハルク・ホーガン を破り優勝を果たした[ 26] 。このリーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアント も参加しており(パートナーはザ・ハングマン )、5月のローデス戦に続き、アメリカでは見られないベビーフェイス のトップ同士の対戦がタッグマッチながら実現している[ 27] 。
対ハルク・ホーガン 戦(1980年)
その後、WWFはビンス・マクマホン・ジュニア の新体制下となり、各地の有力選手を次々と引き抜き全米侵攻を開始するが、派手さに欠けるバックランドは全米制覇のトップには不適格と判断され[ 14] 、次期王者にはハルク・ホーガンを据えることが決まり、1983年 12月26日、アイアン・シーク に敗れ王座転落[ 15] 。5年10か月間に渡って君臨していた「ニューヨークの帝王」の座を降りることになった[ 14] 。
王座陥落後もしばらくWWFに残留し、ホーガン、アンドレ、サージェント・スローター らと共に、ベビーフェイス陣営の主力として全米サーキットに合流[ 28] 。ロディ・パイパー 、ポール・オーンドーフ 、デビッド・シュルツ などニューカマーのヒール とも対戦したが、1984年 7月にWWFを離脱し、AWAのバーン・ガニア やNWAのジム・クロケット・ジュニア らが共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA " に参加した。1985年 は2月22日にセントポール 、4月18日にワシントンD.C. にて、リック・マーテル のAWA世界ヘビー級王座 に挑戦している[ 29] 。
1986年 よりアメリカでは一時セミリタイア状態となるも、日本には1988年 から1991年 にかけて第2次UWF やUWFインターナショナル に参戦しており、高田延彦 とのシングルマッチも3回行われた[ 30] [ 31] 。
1992年 末、WWFに復帰。当初は王者時代と同じくベビーフェイスとして活躍し、1993年 のロイヤルランブル では60分以上も闘い抜いたが、1994年 に突如ヒールターン を決行[ 2] 。敬称を冠した「ミスター・ボブ・バックランド (Mr. Bob Backlund )」を正式なリングネームにして自分への敬意をファンに強要するなど、後のカート・アングル とウィリアム・リーガル を足して割ったような嫌味で口うるさい紳士ギミック へのキャラクターチェンジを果たした。荒廃したアメリカ文化の矯正を図るべく、アングル として大統領選挙への出馬を表明したこともある[ 32] 。
1994年11月23日、ブレット・ハート を破り11年ぶりにWWF王者に返り咲く[ 16] 。しかし11月26日のMSG におけるハウス・ショー でディーゼル にわずか8秒で敗れ、文字通りの三日天下に終わった[ 15] 。その間、同年8月には当時WWFと提携していたWAR にも参戦[ 33] 、イワン・プトスキー の息子スコット・プトスキー (英語版 ) とザ・ウォーロード をパートナーに、冬木軍(冬木弘道 、邪道&外道 )を破り世界6人タッグ王座 を獲得した[ 34] 。
1995年 はブレット・ハートと抗争を繰り広げ、4月2日のレッスルマニアXI ではロディ・パイパーを特別レフェリーに迎えてのアイ・クイット・マッチ が行われている[ 35] 。7月にはWARに再来日し、同月7日の両国国技館 大会ではミル・マスカラス&ジミー・スヌーカ と組んで6人タッグマッチに出場[ 36] 。同年下期から1996年 にかけては、プレイング・マネージャー としてディーン・ダグラス やザ・サルタン のセコンドも務めた[ 2] 。
WWF離脱後、1998年 と1999年 にはバトラーツ に来日[ 37] [ 38] 。2001年 には新日本プロレスへの16年ぶりの参戦が実現、10月8日の東京ドーム 大会において、かつてのライバル藤波辰爾 と組んでザ・ファンクス と対戦した[ 39] 。
引退後(2015年)
引退後はコネチカット州 で建設資材を扱う会社を経営。2007年 上期はTNA に登場してアレックス・シェリー との対立アングル が組まれたが、同年12月10日にはWWE の "RAW 15th Anniversary" でのスペシャル・バトルロイヤルに出場した[ 40] 。以降も時折WWEの番組に姿を見せ、2012年 7月9日のRAWでは久々にリングに上がり、ヒース・スレイター を十八番 のチキンウィングフェイスロック でタップアウト させている[ 41] 。
2013年 4月、WWE殿堂 に迎えられた[ 2] 。2016年 7月からは、バックランドを師と仰ぐダレン・ヤング のマネージャーを担当[ 2] 。2018年 4月には、ドラディション の『DRADITION 2018 BACK TO THE NEW YORK TOUR』に参戦した[ 42] 。
人物
レスリングの技術は高く、マークス(腕自慢の素人を抑え込む役)ができることでプロモーターから信頼されていた[ 8] 。
スタン・ハンセン 曰く、非常に純朴で愛すべき人物とのこと。グリーンボーイ時代にローカルタイトルを奪取した際、「そのベルトを獲得した者は肌身離さず装備しなければならない」という先輩レスラーの冗談を真に受けて、ベルトを腰に巻いたままレストランで食事をしていたという[ 8] 。
その人柄については、WWF ではヒール のマネージャー として敵対関係にあったフレッド・ブラッシー も自著で触れており、「酒もドラッグもやらず、レスリングと家族を愛する、この業界にはもったいないくらいの素晴らしい男」などと評している[ 43] 。
練習熱心なことでも定評があり、ダイナマイト・キッド は「ステロイド には一度も手を出さず、一生懸命トレーニングに励んでいた。ホテルの中でさえも、朝になるとボブが階段を上り下りしている姿が見受けられた」などと自著で記している[ 44] 。
得意技
獲得タイトル
WWWFヘビー級王者時代(1970年代)
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:2回[ 7]
セントルイス・レスリング・クラブ
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
WWWF / WWF / WWE
新日本プロレス
WAR
WWF王者時代の主な挑戦者
対スーパースター・ビリー・グラハム 戦(1978年)
対ピーター・メイビア 戦(1979年)
対サージェント・スローター 戦(1980年)
対スタン・ハンセン 戦(1981年)
王座統一戦(ダブル・タイトルマッチ)での対戦相手やWWF圏以外の他地区遠征時の挑戦者も含む[ 46] [ 47] [ 48] [ 49] [ 50] [ 51] 。
脚注
外部リンク