ジェリー・ブリスコ(Jerry Brisco、本名:Floyd Gerald Brisco、1946年9月19日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。オクラホマ州オクラホマシティ出身。
元NWA世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコの実弟であり、彼と同じくアメリカン・インディアンの血を受け継いでいる[1]。引退後はWWEのプロデューサーを務め、2008年には兄と共にWWE殿堂に迎えられた[2]。
息子のウェスリー・ブリスコもプロレスラーであり、WWEの傘下団体FCWでウェス・ブリスコと名乗って活動していた。
来歴
NWA時代
兄ジャック・ブリスコと同様に学生時代はレスリングで活動し、1967年2月にAAU大会のオクラホマ州チャンピオンとなる[3]。同年3月、オクラホマ州立大学を中退してプロデビュー[3]。1969年7月には日本プロレスに初来日している[4]。日本では「中西部の若駒」なる異名が付けられていた[5]。
1970年代は主にジャックのタッグパートナーとして、フロリダのCWFやジョージアのGCWなどNWAの南部テリトリーを中心に活動。CWFでは1971年2月16日、ジャックとのブリスコ・ブラザーズ(The Brisco Brothers)でジ・インフェルノス(フランキー・ケイン&ロッキー・スミス)からNWAフロリダ・タッグ王座を奪取。以降、同年4月13日にザ・ファンクス、1972年11月16日にスプートニク・モンロー&ノーベル・オースチン、1977年1月10日にボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニア、同年6月3日にスーパースター・ビリー・グラハム&オックス・ベーカー、1978年1月25日にミスター・サイトー&イワン・コロフ、同年6月13日にはサイトー&ミスター・サトなど、数々のチームを破り同王座を再三獲得した[6][7]。
特に、ファンクスとはオーキー(オクラホマ人)対テキサン(テキサス人)、インディアン対カウボーイという図式のもと1980年代初頭まで南部各地で抗争を展開しており(ポジションはブリスコ兄弟がベビーフェイス、ファンク兄弟がヒール)、GCWでは1978年から1979年にかけてNWAジョージア・タッグ王座を争った[8]。同王座は1975年にも1月にロッキー・ジョンソンと組んでバディ・コルト&ロジャー・カービーから、10月にボブ・バックランドと組んでトール・タナカ&ミスター・フジから奪取しており、ジャックとのコンビでは1979年11月30日にもマスクド・スーパースター&オースチン・アイドルを破って獲得している[8]。
シングルでは1974年5月21日、GCWにてジョージア版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座をボビー・ダンカンから奪取[9]。CWFでは同年8月にパク・ソン、1975年11月にハーリー・レイス、1978年7月にディック・スレーターを破り、同地区のフラッグシップ・タイトルであるNWA南部ヘビー級王座を通算3回獲得した[10]。抗争相手ファンクスの本拠地アマリロでは、1976年4月16日にスコット・ケーシーからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取している[11]。この間、日本には1974年1月、1975年7月、1976年7月に全日本プロレスに参戦した。
1980年代に入ってからもフロリダのCWFを主戦場に、エディ・グラハムやダスティ・ローデスの懐刀となってブッカー業務も担当。選手としてはジュニアヘビー級戦線で活動し、1981年5月にトーナメントの決勝でヒロ・マツダを破り、NWAフロリダ・ジュニアヘビー級王座を獲得[12]。同年9月16日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取、兄と合わせての「NWA2階級制覇」を果たした[13]。1982年11月4日にはプエルトリコのWWCでディック・スタインボーンを破り、WWC世界ジュニアヘビー級王座も獲得している[14]。
1983年からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区にもジャックとの兄弟コンビで参戦。同地区ではヒールのポジションに回り、リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッド、ワフー・マクダニエル&マーク・ヤングブラッドなどの人気チームとNWA世界タッグ王座を争った[15]。
WWF / WWE時代
長年に渡ってNWAで活動してきたブリスコ兄弟だが、オーナーのジム・バーネットを失脚させてGCWの主宰者となったオレイ・アンダーソンとの確執もあり、1984年4月9日、保有していたGCWの株式をバーネットらと共にWWFのビンス・マクマホンに売却[16]。同年7月14日からはWTBSで放送されていたNWAジョージア地区のプロレス中継がWWFのプログラムに取って代わり、ブラック・サタデーと呼ばれる事件となる[17]。これにより、ブリスコ兄弟はNWAを離れ、当時全米侵攻を推進させていたWWFに参画することとなった[16]。
当初はベビーフェイスのベテラン・タッグチームのポジションでディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションなどと対戦していたが、やがてジャックはプロレス界から身を引き、ジェリーも現役を引退してWWFのロード・エージェントに就任[16]。以後、パット・パターソン、トニー・ガレア、ジャック・ランザらと共に、WWEの重鎮としてバックステージを取り仕切った。
1990年代末から2000年代初頭にかけてのWWFアティテュード路線の最盛期には、"悪のオーナー" ミスター・マクマホンの側近役をパターソンと共に演じ、自らも『Raw is War』のレギュラーキャストとして番組に出演。マクマホン率いる権力ヒールユニット「コーポレーション(The Corporation)」の一員となり[18]、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンやミック・フォーリーらを陥れるべく姦計をめぐらすなど、マクマホンに媚びへつらう悪の幹部として観客のブーイングを煽った。
選手として本格的にリングに復帰することはなかったものの、2000年6月6日にクラッシュ・ホーリーからWWFハードコア王座を奪取[19]。WWFマットにおける初戴冠を果たしたが、タイトルに欲を出したパターソンの裏切りに遭い王座から陥落。同年6月25日のキング・オブ・ザ・リングでは、マクマホンの命によりパターソンとの女装でのイブニング・ガウン・マッチによるハードコア王座戦が組まれた(インディアンの血を引いていることから、コメンテーターのジェリー・ローラーはブリスコを見て「ポカホンタス!」などと叫んでいた)。
WCWとの視聴率戦争の終結と同時期にアングル上からは姿を消し、以降はプロデュース業務に専念している。2008年3月29日にはプロレス界における功績を称え、兄ジャック・ブリスコと共にWWE殿堂に迎えられた(インダクターはジョン・レイフィールド)[2]。WWEでは2014年までタレント・スカウト部門を担当していた[20]。
得意技
獲得タイトル
- ナショナル・レスリング・アライアンス
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回[11]
- イースタン・スポーツ・アソシエーション
- ESAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ジャック・ブリスコ)[26]
- ワールド・レスリング・カウンシル
- WWC北米タッグ王座:1回(w / ジャック・ブリスコ)[27]
- WWC世界ジュニアヘビー級王座:1回[14]
- ワールド・レスリング・エンターテインメント
脚注
外部リンク