ジミー・バリアント(Jimmy Valiant、本名:James Harold Fanning、1942年8月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州フランクリン出身。
現役選手時代はヒールの "ハンサム" ジミー・バリアント("Handsome" Jimmy Valiant)、ベビーフェイスの "ブギウギ" ジミー・バリアント("Boogie Woogie" Jimmy Valiant)として活躍した[2]。
来歴
1964年にビッグ・ジム・ベイレン(Big Jim Vallen)のリングネームでデビュー。中西部やテキサスなど各地を転戦後、1970年代に入りジミー・バリアント(Jimmy Valiant)と改名[3]。1971年よりニューヨークのWWWFに登場し、ペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に再三挑戦した[4]。1972年6月にはキラー・コワルスキーとムース・ショーラックに次ぐ3番手外国人のポジションで日本プロレスに初来日している[5]。
1973年11月、ジョン・L・サリバンことジョニー・バリアントをパートナーに、金髪のヒール・タッグチーム「バリアント・ブラザーズ(The Valiant Brothers)」を結成[6]。翌1974年1月5日、インディアナポリスのWWAでブルーノ・サンマルチノ&ディック・ザ・ブルーザーからWWA世界タッグ王座を奪取[7]。シングルでも、カウボーイ・ボブ・エリスとWWA世界ヘビー級王座を争った[8]。WWWFではキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに迎え、同年5月8日にディーン・ホー&トニー・ガレアを破りWWWF世界タッグ王座を獲得している[9]。
1976年5月にはバリアント・ブラザーズとして全日本プロレスに来日、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座およびグレート小鹿&大熊元司のアジア・タッグ王座の両タイトルに挑戦している[10]。以降もジョニーとのコンビで全米各地を転戦、WWAではボビー・ヒーナンのマネージメントのもと、世界タッグ王座を1977年と1978年にも獲得した[7]。
シングルでも数々の実績を残しており、テネシー州メンフィスに本拠を置くCWAでは1977年から1981年にかけて、AWA南部ヘビー級王座を巡ってジェリー・ローラーと流血の抗争を繰り広げた[11]。CWAでは一時的にフェイスターンも行い、ローラーやロッキー・ジョンソンのパートナーとなってタッグ戦線でも活躍。1978年5月29日にはローラーと組んでジョー・ルダック&ジャン・ルイから、1980年5月12日にはジョンソンと組んでデビッド・シュルツ&デニス・コンドリーから、AWA南部タッグ王座をそれぞれ奪取している[12]。この当時、彼は『ハンサム・ジミーのバラッド(The Ballad of Handsome Jimmy)』という歌まで録音し、自分の入場曲に使用していた。ローラーの自著によると、CWAは是が非でもジミーをとどめておきたくて、メンフィスに彼の自宅を購入することまで提案したという。
1980年代に入るとバリアント兄弟を解散してシングルプレイヤーに専念。1981年はNWAミッドアトランティック地区にて英国出身のロード・アルフレッド・ヘイズをマネージャーに迎え、キング・ジェームズ・バリアント(King James Valiant)と名乗って王族ギミックのヒールを演じ[13]、デューイ・ロバートソン、ワフー・マクダニエル、リッキー・スティムボート、マスクド・スーパースターなどと対戦した[14]。
1982年よりブギウギマン(Boogie Woogie Man)をニックネームにコミカルなショーマン派ベビーフェイスへのギミック・チェンジを行い、南部を中心に各テリトリーで人気者となる。主戦場のミッドアトランティックではイワン・コロフやスーパースター・ビリー・グラハムなどWWWF時代のヒール仲間と抗争し、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した[15]。1983年の下期には、ザ・グレート・カブキとのルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れたことを機に、チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)なる覆面レスラーに一時変身[16]。同年11月24日にグリーンズボロ・コロシアムで開催されたスターケードの第1回大会では、カブキとの王座とマスクを賭けたTV選手権試合で勝利を収めている[17]。古巣のCWAでは1984年に、旧敵ジェリー・ローラーやランディ・サベージとタッグと組んで活躍した[18]。
1985年1月、ローラーとのコンビで全日本プロレスに9年ぶりの来日を果たす[19]。しかし、長州力らジャパンプロレス勢の参戦で日本人同士のハイスパート・レスリングが主流化していた当時の全日本マットでは、彼のショーマン・スタイルが受け入れられることはなく[20][21]、これが最後の来日となった。帰国後の2月21日にはメンフィスにてアイアン・マイク・シャープを破り、NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得している[22]。
以降、1980年代後半はNWAのジム・クロケット・プロモーションズに定着して、タリー・ブランチャード、アーン・アンダーソン、ポール・ジョーンズ、シャスカ・ワトレー、バロン・フォン・ラシクらと抗争を展開[23]。タッグではバグジー・マグローと組んで活動したが、両者のコンビは業界誌レスリング・オブザーバーにおいて、1987年の"Worst Tag Team" に選出された。
WCWへの移行期にNWAを離れ、1990年にメンフィスのUSWAでローラーとの抗争を再開。USWA統一世界ヘビー級王座を2回に渡って獲得している[24]。1993年にはカロライナ地区のインディー団体NWAにも参戦した。WWFとは1979年を最後に関係を絶っていたが、1996年にジョニーとのバリアント・ブラザーズとしてWWE殿堂に迎えられている(インダクターは当時のWWF世界タッグ王者だったブリティッシュ・ブルドッグとオーエン・ハート)[25]。
引退後はバージニア州ショーズビルにてプロレスリング・スクールの "Boogie's Wrestling Camp" を主宰[26]。"The Boogie Woogie Referee" と称し、各地のインディー団体にスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場することもあった[1]。
得意技
獲得タイトル
- ワールド・レスリング・アソシエーション
- NWAサンフランシスコ
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジョニー・バリアント)[28]
- ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
- NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジョニー・バリアント)[29]
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
- NWAミッドアメリカ / コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
- ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション
- USWA統一世界ヘビー級王座:2回[24]
- USWA南部ヘビー級王座:1回[31]
- ワールド・レスリング・フェデレーション
脚注
関連項目
外部リンク