ジョージ・ハッケンシュミット (Georg Karl Julius Hackenschmidt、1878年 8月2日 - 1967年 2月19日 )は、エストニア 、タルトゥ 生まれのプロレスラー 。近代プロレスリング創成期を代表する選手として活躍し、ラシアンライオン (ロシアのライオン)の異名をとった。ベアハッグ の発明者としても広く知られる。
全盛期の鍛え抜かれた強靭な筋肉と、そこから搾り出されるパワーは当時より伝説化しており、ハッケンシュミットの活動期より約1世紀が経過する現在においても特異な存在感を放っている。
来歴
1896年 9月にプロデビュー、数年のうちに様々なトーナメントで優勝しており、同時代の選手と比較して圧倒的なパワーファイターであったと言われる。1900年 にはイギリス に進出、賞金マッチシリーズを実施している。統一世界ヘビー級王座 に絡み、フランク・ゴッチ と1908年 と1911年 の二度の対戦を行う。このフランク・ゴッチ戦の内容については現在に至るまで様々な疑惑が残っているが、その興行形態や観客動員の面において近代プロレスの転換を促すこととなった。1911年引退。引退後は肉体トレーニングに関する複数の著作が知られる。
1967年 、イギリスにて没。
プロレスラーとしての活動期間は約15年と長くはないが、数多くのタイトル、特に初代統一世界ヘビー級王座 の獲得は特筆される。
2016年 4月2日、WWE殿堂 のレガシー部門に迎えられた[ 1] 。
記録に残るタイトル歴など
一部の記録については、試合の開催年のみ判明しており、開催日時が不明のものがある。
1899年
ヨーロピアン・ヘビーウェート・レスリング・チャンピオンシップ優勝
1899年
1901年
11月 、世界ヘビー級王座(ヨーロッパ版)認定
12月 、ヨーロピアン・ワールド・グレコローマン・ヘビー級トーナメント優勝
1904年
1月30日 、世界グレコローマン王者認定(対アーメッド・マドラーリ)
7月2日 、トム・ジェンキンス戦に勝利するも、ファイトマネーを分配した事を理由に八百長疑惑が囁かれる。
1905年
1908年
4月3日 フランク・ゴッチと対戦、統一世界ヘビー級王座がゴッチに移動(於、シカゴ、デスクターパーク・パビリオン)これにより世界ヘビー級王座とアメリカン王者が統一。
1910年
イギリスで活動していたレスラー、ガマ・ザ・グレートがハッケンシュミットへの挑戦を表明するが、ハッケンシュミットは宗教上の理由からこれを拒否。
1911年
フランク・ゴッチ戦にまつわる疑惑
1908年のゴッチ戦は、ハッケンシュミットが統一世界ヘビー級王者、ゴッチがアメリカン王者としての対戦であり、試合時間は実に2時間3分にも及んだ。しかし肝心の試合内容はゴッチが圧倒的なパワーを誇るハッケンシュミットと組み合う事を避け、ラフや反則に終始したためハッケンシュミットが試合放棄 し、ゴッチの勝利となった。この経緯についてはゴッチ陣営によるレフェリー買収説や、試合後の「(ゴッチが)体にオイルを塗っており、試合にならなかった」というハッケンシュミットの発言も残っている[ 2] 。結果として世界ヘビー級王座とアメリカン王座が統一されるという歴史的にも意義のある試合ではあるが、いまだ疑惑は晴れない。
1911年のゴッチ戦では、ハッケンシュミットのストレート負けという結果であるが、これは試合直前のトレーニング中に膝を故障していたハッケンシュミットが、ゴッチに執拗に膝を攻められたのが要因としてある[ 3] 。しかしこの膝の故障自体に、ゴッチが自分の友人のアド・サンテル を利用して仕掛けたトラブルという説がある[ 3] 。
その他
得意技
外部リンク
脚注
^ “Congratulations to the 2016 WWE Hall of Fame Legacy inductees ”. WWE.com. 2016年4月3日 閲覧。
^ プロレス世界史年表1908年
^ a b プロレス世界史年表1911年
^ 【大相撲豪傑列伝】(8)20世紀最強の人類 太刀山峰右衛門
産経新聞 2008.11.15 16:54