垣原 賢人(かきはら まさひと、1972年4月29日 - )は、日本の男性プロレスラー。ミヤマクワガタの収集家でもあり、「ミヤマ☆仮面」として、子供向けの昆虫イベントを主宰。愛媛県新居浜市出身。血液型O型。
1989年に新生UWFのオーディションに合格。同期には長井弘和(現:長井満也)、冨宅祐輔(現:冨宅飛駈)がいた。1990年8月、横浜アリーナ大会にて冨宅祐輔戦にてデビュー、団体分裂後は高田延彦率いるUWFインターナショナル(以下「Uインター」)に所属、旗揚げ戦の田村潔司戦ではいきなり骨折により長期欠場に追い込まれた。
Uインター時代、テネシー州ナッシュビルで数か月間、海外武者修行を経験。ビル・ロビンソンから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをマンツーマンに近い形で教わった。
その後、当時U系では数少ない使い手であったニールキックや船木誠勝に影響を受けた掌打といったスピーディな打撃技や、会場を沸かせる若さあふれる小気味いいファイトにより台頭。95年にはゲーリー・オブライトからの金星を上げその後は高田延彦とメインイベントで対戦するなど、田村潔司と共に次代のエース候補として期待された。また、何度かに渡る田村との対戦は名勝負として度々注目された。そして田村が出場拒否したUインターと新日本プロレスの対抗戦が始まると、その初戦で佐々木健介を破り第一線に躍り出た。
Uインター崩壊後は後継団体のキングダムに参加し、旗揚げ戦はメインを飾るも、同団体が格闘技色を濃厚にしてゆくにつれて後輩の桜庭和志や金原弘光らの台頭に影が薄くなり、山本健一(現:山本喧一)戦ではバッティングにより18秒で敗退。解散後は他の選手たちのようにPRIDEやリングスなど格闘技団体ではなく全日本プロレスに参戦、Uインター時代の同僚高山善廣、ゲーリー・オブライトと第2次TOPとして活動した後、三沢光晴率いるアンタッチャブルの一員となって活躍した。
しかし、2000年の全日本プロレス分裂騒動で垣原は三沢らと共にプロレスリング・ノアに移籍したが、旗揚げ戦のタッグマッチでオープンフィンガーグローブを装着し、大森隆男らを一方的に叩きのめすファイトを繰り広げ、そのまま翌日以降の興行に参戦せずに退団。(経緯と理由は下記項目に記載)古巣の全日本にフリーとして復帰した。全日本と新日本プロレスとの対抗戦にも参戦するようになり、そのまま新日本に鞍替えし、2002年に新日本に正式入団。2003年にはBEST OF THE SUPER Jr.で優勝を果たしたが、垣原はその後もケガを繰り返した。
2006年4月19日に頸椎椎間板ヘルニアに起因する第4・第5頸椎損傷により現役引退を発表し、5月28日の後楽園ホール大会における対金本浩二戦で引退した。第1試合として5分1本勝負で行われ、試合後の垣原の引退セレモニーにはUインターの主だったメンバーも参加した。
引退後の垣原は、クワガタと森を愛するネイチャーボーイ、「ミヤマ☆仮面(ミヤマクワガタに由来)」としてクワガタによる「クワレス(クワガタレスリングの略)」をプロデュース。その様子は、PS3「まいにちいっしょ」内のトロ・ステーション2007年8月13日放送分において見ることができる。2007年に5歳(試合当時)の息子が覆面レスラー「ちびミヤマ仮面」としてUWAI STATION興行で菊タローと対戦し、勝利している。ゴールドジム(株式会社THINKフィットネス)のトレーナー、IWGP実行委員として活動。
2011年9月20日に行われたスターダム秋田大館大会で、ウルティモ・ドラゴン&美闘陽子vs男色ディーノ&世IV虎戦の特別立会人として来場した。
2011年11月16日に行われた『金原弘光デビュー20周年記念興行「U-SPIRITR」』にて、1日限定の復活を果たしたが、負けたままでは終われないと語り(対戦相手は望月成晃)、完全復活を目指すと宣言している[1]。
2012年9月21日、リアルジャパンプロレスにて「ミヤマ☆仮面」として復帰した[2][3]。
2014年12月、垣原のFacebookにて悪性リンパ腫に侵されていることを公表し闘病生活に入っており[4]、2015年8月18日には垣原を応援する有志主催により大日本プロレスが後楽園ホールの開催日程を提供し運営に協力する形で「Moving On〜カッキーエイド〜」が開催された[5]。
2017年8月14日、藤原喜明とのシングルマッチで復帰。
2018年1月4日、WRESTLE KINGDOM12 in 東京ドームの第0試合 1分時間差バトルロイヤル ~ニュージャパンランボー~に登場し、優勝した。