フジパン株式会社(英: Fuji Baking Co., Ltd.)は、愛知県名古屋市瑞穂区に本社を置く、フジパングループ本社(持株会社)の子会社。日本第2位の製パン会社であり、山崎製パン、敷島製パンとともに大手3社の一角を占める。
2006年7月1日にフジパングループ本社に社名変更し[広報 3]、同日付で製造および販売部門をフジパン株式会社に会社分割した[広報 1]。
パン製造のほか、大手コンビニエンスストアのセブンイレブン・ジャパンやファミリーマート[広報 4]、ミニストップなどへの惣菜供給も手掛けている。
1922年(大正11年)5月1日に名古屋市中区長岡町で舟橋甚重が「金城軒」として菓子とパンの製造小売店を創業したのが始まりである[1]。
しかし、戦時体制下での企業整備により、1942年(昭和17年)に企業整備令により強制廃業となった[2]。
1946年(昭和21年)3月に愛知県食糧課からパン委託加工工場としての許可を取得して[3]、同年5月1日に[4]、名古屋市瑞穂区豊岡通2-68で[5]「富士精糧工業」の屋号でパン委託加工工場として再開した[6]。 この「富士」という名称は、「安田善次郎の生き方を身につける」ことを目指して旧・安田銀行の新名称の「富士銀行」からとったものであると同時に、舟橋甚重(ふなはしじんじゅう)の姓名の頭文字「ふ」と「じ」を合わせたものとして名付けたとされる[7]。 なお、この戦後の製パン業の再開時には、所有地の売却で資金を得ようとしたが実現せず、やむを得ず、家財道具や自宅の畳などを手放して窯やミキサーなどの生産設備を調達し、収穫したサツマイモと小麦を交換して原材料を調達している[3]。 このパンの委託加工は好調であったが、「ふすま」の入った原材料で加工することが多く、企業整備の際も「配給パン」の製造で事業を継続して製パン業者の様な白い本来のパンでなかったことから、同年中に同業者13軒と共に「配給パン」の製造許可を得て、本来のパンの製造を再開した[3]。
1951年(昭和26年)2月6日に名古屋市瑞穂区豊岡通に資本金50万円で(初代)富士製パン株式会社を設立し[4]、和洋菓子の製造・販売も再開した[6]。 1952年(昭和27年)9月30日に名古屋市瑞穂区松園町の約3000坪の敷地に本社・名古屋工場を移転し[4]、オートメーション化した連続製パン機を導入し[8]、 1960年(昭和35年)に[9]日本の製パン業界で初めて全商品の自動包装化を実現する[10]などパン製造の機械化・自動化を進めた[9]。
1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風では、当社も被災したものの一日10万食の救援パンの製造を受託し[11]、その包装パンが被災者たちに好評で[12]、同時に実施された地下街での減価販売などと相俟って主婦から感謝の手紙などが届けられた逸話が残っている[13]。
1964年(昭和39年)9月11日に米国・アーノルド・ベーカーズ・インコーポレイテッドと冷凍パンの技術について提携し[14]、1966年(昭和41年)2月1日にはフジパンストアー株式会社を設立してインストアベーカリー部門に進出し[15]、同年9月1日に冷凍パン事業を開始した[16]。
当社のこうした攻勢などの影響により、製造直販を売りにしていた中小の製パン業者は苦境に追い込まれ、愛知県内の製パン業者数は1964年(昭和39年)の約400軒から1967年(昭和42年)には170軒まで減少したとされる[8]。
日本に於ける食パンラインの嚆矢とされる工場であった[17]「新日本製パン」の株式の70%を1969年(昭和44年)末に取得して資本提携して傘下に入れた[18]。
1970年(昭和45年)6月1日に「昭和堂」[注 1]と「(2代目)冨士製パン」を合併した[20]。
また、ビスケットメーカーのフジタ製菓と共に富士製菓を設立し[21]、1970年(昭和45年)6月に認可を得て米国第2位のビスケットメーカーのサンシャインと技術提携し[22]富士製菓から日本サンシャインへ社名を変更した[23]。 そして、同年9月に愛知県丹羽郡大口町の大口工場で生産を開始し[23]、同年10月に「ハイホークラッカー」を発売した[24]。
1971年(昭和46年)11月にピザメーカーの米国・インターナショナル・アイセプタンスと提携し、1972年(昭和47年)9月にグリーンフーズを設立し、ピザハウス第1号店「ポルポ」を名古屋駅前の豊田ビルに出店した[25]。 そして、同年12月から西春工場で生産した冷凍ピザ・「ポルポ」を中京地区と関東地区で発売した[26]。
また、この間にユニーと共同出資で「株式会社富士カントリー」を設立し、1972年(昭和47年)に富士カントリー可児クラブを開設した[27]。
1978年(昭和53年)にはサンドイッチ店チェーン・「フジクック」の1号店「ピクルス」を名古屋駅前の豊田ビル地下に出店した[28]。
日本マクドナルド向けのパンズの納入は当初は第一屋製パンが一手に引き受けていたが[29]、契約期限切れの際にパンズの専用ラインまたは専用工場と専用の配送システムを求めたが第一屋製パンが応じなかったため[30]、1978年(昭和53年)9月で同社との契約が終了し[30][31][注 2]、同年10月1日から当社が日本マクドナルド向けのパンズの納入を開始した[33]。 そして、同社向けに食材や包装資材の納入業務を行う「株式会社富士エコー」を設立し、1979年(昭和54年)7月1日に営業開始した[34]。 なお、日本マクドナルド向けのパンズの納入は当社の独占ではなく、リョーユーパンやオキコも手掛けている[35]。
1980年(昭和55年)1月に永井パンと業務提携した[36]。
1981年(昭和56年)1月29日に瀬戸内パンと業務提携して同年3月から生産を委託して中国・四国地方での生産・販売を強化することになった[37]。
1982年(昭和57年)6月28日に認可を受けて、同年7月1日に武蔵工場に「フジパン高等職業訓練校」を開校した[38]。
1983年(昭和58年)に零細規模の特約店を少額投資で活性化させることを目的として「フジファミリーショップ」という店舗面積約30m2の新たな店舗業態の展開を始めた[39]。
また、富士カントリーのパネトーネ種の酵母によるロングライフ・パンのプロジェクトを発展させる形で[40]、1984年(昭和59年)6月18日に株式会社コモを設立した[41]。
1984年(昭和59年)9月5日に日魯漁業(現マルハニチロ)と業務提携して「あけぼのパン株式会社」に50%を出資して傘下に入れ、東京都内に系列工場を持つことになった[42]。
1985年(昭和60年)3月にオアフ島南ベレトニアストリート2065にフジパン・オブ・ハワイの本社・工場を開設した[43]。
「徳島中央製パン株式会社」と資本・業務提携して50%を出資して傘下に入れ、1985年(昭和60年)6月から当社ブランドでのパン・和洋菓子の製造を行わせ、香川県・徳島県に本格的に進出した[44]。
池田製菓の倒産の影響で信用不安が生じた同社のパン販売子会社イケダを[45]1986年(昭和61年)7月に買収して[広報 5]九州に進出した[46]。 そして、同社が所有していた熊本県北部町の用地に、1987年(昭和62年)5月に熊本工場[47]、福岡県新宮町の用地に1987年(昭和62年)6月に福岡工場を開設した[48]。
1986年(昭和61年)12月に[49]、フジパンが74%でハチソンが36%を出資して「コモベーカリー香港」を設立して香港島のアバディーンにあった「パークンショップ」内に1号店(店舗面積は約100m2)を開店して香港に進出した[50]。
「イービーシラサヤ」と業務提携して1987年(昭和62年)10月から同社で当社ブランドの菓子パン等の生産を開始することになった[51]。
1988年(昭和63年)1月に「株式日立フジ」を吸収合併して千葉工場を開設し[広報 5]、同年12月9日にタイヨー加治木店に焼き立てパンの直売店「ボンフランス」を開店して南九州に初出店した[52]。
主力の製パン事業では、1990年(平成2年)7月17日に神戸市六甲アイランドに神戸工場を開設したが[53]、1995年(平成7年)1月の阪神大震災では六甲アイランドにあった神戸工場が被災してガス・水道・橋などのインフラの被害も大きかったことから操業休止を余儀なくされた[54]。
1980年(昭和55年)1月に業務提携した「株式会社永井製パン工場」を[36]1995年(平成7年)1月にを買収し[広報 5]、1998年(平成10年)7月に広島販売部が営業開始するなど広島地区の事業の強化を図った[広報 5]。 また、その間の1996年(平成8年)4月にトーヨ製パン・ハチキョーベーカリー・徳島中央製パンの3社を合併させ[55]、「株式会社四国フジパン」を発足させた[広報 5]。
2017年(平成29年)1月1日に「株式会社イースト・ボルト・ジャパン」を買収[広報 6]。
また、1993年(平成5年)3月に「かんたんトースト」を発売し[56]、同年秋に「本仕込」を横浜工場で製造開始して発売して主力商品とする[57]など製品開発も進めた。
ベーカリー事業では、1990年(平成2年)2月に[広報 5]フジパングループ12社の出資で設立し[58]、ベーカリーの経営に関する総合的な支援を事業化した[58]、1992年(平成4年)6月に埼玉県桶川市に総合研修センターを開設した[58]。 同年11月に「九州フジパンストアー株式会社」を設立し、同社が2004年(平成16年)11月に「東部フジパンストアー株式会社」を吸収合併し、2008年(平成20年)6月に「北越フジパンストアー株式会社」を設立するなど地方でのベーカリー子会社の整備を進めた[広報 5]。
また、弁当・総菜・調理パンなどの製造販売事業では[広報 7]、1993年(平成5年)10月に「株式会社日本デリカフレッシュ」を設立し[広報 5]、同年11月には「株式会社日本フーズデリカ」と「株式会社フジデリカ」を設立と子会社を相次いで設立など事業網を整備[広報 5]。 1994年(平成6年)6月にミニストップに焼き立てパン「HOT EXPRESS 手作り工房」の供給を開始した[59]。
2002年(平成14年)3月に「株式会社フジデリカ」・「株式会社日本デリカフレッシュ」・「株式会社日本フーズデリカ」・「株式会社日本デリカーナ」の中間持ち株会社の「株式会社富士でりかぐるーぷ本社」を設立し、2004年(平成16年)6月に「株式会社日本デリカフレッシュ」が「株式会社日本デリカーナ」を吸収合併させるなど弁当・総菜・調理パンなどの製造販売事業の集約化を図った[広報 5]。 2008年(平成20年)7月に「株式会社富士でりかぐるーぷ本社」を、2017年(平成29年)1月に「株式会社日本フーズデリカ」を「フジパングループ本社」が吸収合併し、弁当・総菜・調理パンなどの製造販売事業は「株式会社フジデリカ」と「株式会社日本デリカフレッシュ」の2社に集約した[広報 7]。
米国・アーノルド・ベーカーズ・インコーポレイテッドのポール・アーノルド社長とエリザベス・アーノルド夫人から「私たち(夫妻には)後継者がいないから、技術提携のロイヤリティーは全て日本のパンの普及向上に使ってください」との申出があったことから[122]、1967年(昭和42年)4月12日に[64]名古屋市で設立された[122]。 その為、米国・アーノルド・ベーカーズ・インコーポレイテッドは技術供与に関するロイヤリティーは事実上徴収せず[64]、代わりにロイヤリティー相当する売上の3%を[64]財団の基金として積み立てる形となった[123]。
パン用国産小麦の品質改良・製パン技術の向上発展・製パン機械の改良・パンの消費喚起・奨学金による育英活動などを目的として、研究助成や講演会・講習会などの活動を続けている[122]。
1981年(昭和56年)より、CSR活動の一環として民話にまつわるサービスを行っている[124][広報 21][広報 22]。
民話のテレホンサービス「とんとむかし あったとさ」(1981年(昭和56年)7月[広報 23] - 2022年(令和4年)4月[広報 24])、Webサイト「民話の部屋」(2000年(平成12年)10月 - 2022年(令和4年)5月末[広報 25])のスポンサーとなっていた[広報 25]。卸売りパン(一部を除く)のパッケージ裏面に記載された「民話が電話で聞けるヨ!」の番号に電話を掛けると、テープ音声による民話の語りを聞くことができた[広報 25]。毎週月曜に更新され、Webサイトでは過去の音声作品に挿絵と文章を付け加えた形式で公開されている。
ほとんどが日本の民話であり、約5分 - 10分間にまとめられている。最後まで民話を聞くと、『フジパンの一口メモ』として、パンに関するトリビアが聞ける。回によっては『フジパンからのお願い』として、電話で聞いた民話を友達などに話をして欲しいというアナウンスが流れていた。[独自研究?]
制作は東京テレホン放送[124]。1974年(昭和49年)6月から同社が単独でテレホンサービスを行っていたところ、元教師であった2代目フジパン社長・舟橋正輝の意向で、1981年(昭和56年)からフジパンが提供に付いた[広報 21][広報 26][125]。ナレーションはサービス開始時から2003年(平成15年)までは井上瑶が務め[126]、井上の逝去後の2004年(平成16年)からは2代目として平辻朝子が担当している[127]。
下記『むかしばなしのおへや』の提供開始と同時に、当テレホンサービスを2022年(令和4年)5月末に終了することが公表された[広報 25]。テレホンサービス終了にあわせて、Webサイト「民話の部屋」はフジパン公式サイト内から東京テレホン放送の運営する新サイトへ移転し[広報 26][広報 27]、2022年6月以降も毎週更新されている[広報 24]。
BS-TBSで2020年(令和2年)6月よりノンスポンサーで放送されていた昔話アニメーション番組『むかしばなしのおへや 〜伝えたい日本昔話〜』は、2021年(令和3年)10月25日よりフジパンが単独スポンサーとなり主題歌や番組構成を一新するとともに、YouTubeにて公開されていた本編動画がフジパン公式サイトにてリンク公開されるようになった[広報 25]。
年に1度、小学生のクラブチームを対象に、全国9地区で「フジパンCUP」の大会を行っている。
最初の頃は「山は富士山日本一、パンならフジパン日本一」というキャッチフレーズで、テレビ・ラジオで宣伝していた[128]。
鉄骨にキャンバス張りで昆虫をかたどった地上2階建て・高さ11mの変形のドームで[129]、中央にミラーボールを取り付けた高さ35mのテーマ塔があった[130]。 館内は、「ロボットの森」・「ロボットの街」・「ロボットの広場」の3つに分かれており[130]、歌・踊り・奇術などを披露するショーをするロボットや食事や新聞を読むなどほぼ人間並みの動きを見せるロボットなど合計35体のロボットが登場するパビリオンだった[131]。 1970年(昭和45年)の大阪万博で子供たちの人気を集めたパビリオンで、ロボットレストランも併設されていた[132]。
1970年(昭和45年)9月13日に愛知県に寄付され[133]、1971年(昭和46年)に愛知青少年公園の児童遊園地に移築された[134]。 この移築に際に、屋根をキャンバス張りから恒久的な構造に変更された[135]。
老朽化のため1993年に解体された。[要出典]
解体後、同館にあった手塚治虫が原作のロボットは、愛知県児童総合センター内の「ロボットシアター」に移設され、30分毎に演奏を披露している[136]。
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