ヒンドスタン (Hindostan)、はイギリスの競走馬。日本で種牡馬として成功した。馬名の由来はインドのヒンドスタン平原より。
生涯
現役時代は8戦2勝。2000ギニー、エプソムダービーは着外に終わったが、アイルランドに遠征したアイリッシュダービーのほか、セントジョージステークスに優勝し、8872ポンドを稼ぎ出した。
引退後は1950年にアイルランド・ダブリンのゴルグラン牧場(GilltownStud,Kilcullen)[1]で供用されたが、めぼしい産駒を出せず[2]、1955年に日高軽種馬振興会が日本初のシンジケート組織として1350万円で輸入した。このときブッフラー(コダマの父)がおまけで付いてきたので実際の価格は1200万程であったと言われている。組まれたシンジケートも30万×40株と高額であった。
輸入されたヒンドスタンは北海道浦河郡浦河町の荻伏種馬所で供用された。当初は高額なこともあってそれ程人気を集めたわけではなかったが、1961-1965, 1967-1968年の7度日本リーディングサイアーに輝くなど成功を収めた。代表産駒は戦後初の中央競馬クラシック三冠馬シンザンである。産駒の重賞勝利数は113に達し、今なおサンデーサイレンス、ディープインパクト、キングカメハメハ、ステイゴールドに次ぐ歴代5位である。また、シンザン以外に2頭の年度代表馬を輩出しているが、種牡馬として3頭の年度代表馬を輩出したのはヒンドスタンが唯一である[3]
1967年には日本中央競馬会理事長により最優秀種牡馬の表彰を受け、1968年に横隔膜破裂により23歳で死亡したが、翌1969年には浦河町の日高軽種馬農業協同組合会館にヒンドスタンの馬像が建立され、伊藤国男が製作、同年8月3日に除幕式が行われている。また同町の馬事資料館(浦河町馬事資料館)にはヒンドスタンの剥製も展示されている。
その後の子孫
上記の通りヒンドスタンは日本で7度リーディングサイアーに輝いた。その子孫は、時にヒンドスタン系と呼ばれた。後継種牡馬たちは1960年代から70年代の内国産種牡馬不遇の時代にもろに活躍時期が重なったため、大成功と言えたのはシンザンのみで、一定の成績を残したのもダイコーターやリュウファーロスなど少数に限られた。大父系を形成することはなかったが、1990年代でもシンザンの仔ミホシンザンやリュウファーロスの仔アンドレアモン産駒が散発的に活躍馬を出していた。
2000年前後になると、現役種牡馬はミホシンザン産駒のマイシンザンのみとなった。マイシンザンは3年目以降繁殖牝馬が集まらずに早々と種牡馬を引退し、最後の産駒マイティシンザンは浦和競馬場で5戦0勝のまま2008年4月1日付で抹消された。スーパーシンザン最後の産駒タカシマシンザンは2007年9月18日に160戦19勝で登録抹消、最後の1頭であったマイシンザン産駒のシルクセレクションは2009年10月1日付で登録抹消され、ヒンドスタンのサイアーラインは完全に途絶えた。
しかしながら、今日でもヒンドスタンの血を引く馬は一定数いる。ヒンドスタンやシンザン産駒の牝馬は多数繁殖牝馬となっており、日本に古くから伝わる牝系出身の活躍馬の血統表を見ると、ヒンドスタンの名前を頻繁に見かけることができる。
主な産駒
太字は八大競走優勝馬。
- 1957年産
- 1958年産
- 1959年産
- 1960年産
- 1961年産
- シンザン(東京優駿、皐月賞、菊花賞、天皇賞(秋)、有馬記念、宝塚記念、スプリングステークス、目黒記念(秋))
- ウメノチカラ(朝日杯3歳ステークス、毎日王冠、セントライト記念、NHK杯、新潟記念)
- オーヒメ(京都記念(秋)、日本経済新春杯)
- ヒリユウシンゲキ(東海菊花賞)
- 1962年産
- ダイコーター(菊花賞、スプリングステークス、NHK杯、神戸杯、きさらぎ賞)
- エイトクラウン(宝塚記念、阪神3歳ステークス、鳴尾記念)
- 1964年度最優秀3歳牝馬
- 1966年度最優秀5歳以上牝馬
- パワーラツスル(日本経済新春杯)
- 1963年産
- 1964年産
- 1965年産
- 1966年産
- 1967年産
- 1968年産
- 1969年産
血統表
- 2代母Udaipurはオークス優勝馬
- 3代母からは2000ギニー優勝馬パレスタインなどが出ている。
脚注
参考文献
外部リンク
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